シニフィアンはあるのにシニフィエがない『座右のゲーテ』斉藤孝著

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最近の歌は

歌詞は

音に合わせて語呂よくつけられた

内容で文字を短い節に無理やり

詰め込んだ、何を言っているか

わからない曲があります。

しかし、そんな曲なのに何故か

中毒性があり歌詞がわからないのに

何回も聞いたり、わからないなりに

口ずさんでしまうことはないでしょうか?

歌詞(シニフィアン)の意味(シニフィエ)が

わからなくても

なぜ、音楽を楽しむことはできると

本書では紹介しています。

意味不明を楽しむ

例えば、松任谷由実や槇原敬之の歌などは

歌詞にストーリーがあって

歌っているとドラマを見ているかの

ように情景が浮かんだりします。

この“散文“的な歌詞は歌のリズムも

確かに大事なのですが

どちらかといえば、

歌いながら浮かぶ映像の方が

大切のような気がします。

しかし、「脱法ロックの礼法」や

「ロキ」「ブリキノダンス」

などのボカロは歌詞には脈絡はないし

よく聞き取れないほど

短い節に言葉を詰め込んでいます。

曲はノリがよく中毒性があるリズムで

歌詞が分からなくても

何度も聞いてしまいます。

小説よりも詩の方が書くのが簡単

多くの人が

「散文を学べるけど、詩は

 神から与えられた啓示のような

 高級なもので

 詩を書くのは才能がいる」と

思っているのではないでしょうか。

確かに詩はありのままの

事実を順を追って書くのではなく

心の有りようを無理やり文字で

おこすような難解なイメージが有り

限られて者しかその感受性は

与えられてはいないような

気がしてしまいます。

しかし、ゲーテは

詩の方が散文(小説)のより簡単だと

言っているそうです。

「意味がなくても、思いつきで

 言葉を並べていれば、

 読む人が勝手にそこに意味を

 見つけてくれる」からだというのです。

聴く側が勝手に深読みしてくれる

本書ではちょっと古いですが

サザンオールスターズの桑田佳祐や

井上陽水の歌詞などを例えに

あげています。

理論的にありえないつながりに

なっている歌詞でも

リスナーは勝手に脳の中で

違う連想をしてくれるというのです。

連想が飛んでいて深読みする方が

聴く側も面白いというのは

確かにそうだといえます。

「シニフィアン」的な面白さ

民謡であっても

「佐渡おけさ」などの

“おけさ“は専門書や研究書を見ても

「“おけさ“の意味は不明」で

「ソーラン節」の

“ヤーレンソーランソーラン“の掛け声

にいても確固とした意味はなく

もはや何を指しているのかわからなく

なっているそうなのですが

これらは

言語学者のソシュールがいうところの

シニフィアン的な面白さで、

この「シニフィアン」とは言語記号で

表された音のことで

「シニフィエ」とは、

意味される内容のことですが

“おけさ“にはシニフィアンはあるのに

シニフィエがないと言えるのです。

「シニフィアンの戯れ」

このように民謡などでも

意味がなくても音の楽しむものが

多くあるのです。

この音の戯れに、聴く側が勝手に

人生の真理を読み取ってしまう

こともあると著者は本書で

言っています。

その聴く側の連想は

大人になるにつれて萎縮して

しまったり、

男性より女性の方が連想力を

保持することはできるそうです。

まとめます

歌の歌詞が意味のない

言語記号のようであっても

人はわからないものほど

連想力を働かせて、

作者が考えている以上の深読みをし

人生の真理を読み取っていく

ところがあるため、

意味がわからない歌詞であっても

構わず、聴き続けてしまうのです。

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