[山の魅力] 苦しいのに また登ってしまった『孤高の人』新田二郎著を読んで考えてみた

アイキャッチ孤高の人
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50歳半ばを過ぎて,これから必要なことは何かと考えた時

お金より 名誉より

やっぱり“体力”と考えた私は、その鍛錬において

いかに“逃げられない環境”に身を置くかを

考えた末に

「登山だ!」と思いついた。

しかし,現実は苦しくて仕方ない!

登山中は

何故こんなところに来てしまったのか!

もう下山できた暁には、二度と行かないと

思っているのに

家に帰るとまた登りたくなる。

これはどういう心境なのか。

近代社会人登山家の

加藤文太郎をモデルに書かれたと

言われる本著を読んでみた。

加藤だって山が好きでも嫌いでもなかった

小説の舞台は大正時代の終わりから昭和の初期の時代。

主人公の加藤は

尋常小学校を卒業して15歳で美方郡浜坂から

神戸の造船所の技術者研修生として赴任していた。

加藤にとって海と山を持つ神戸は

故郷を思わせる場所であり

山に登ることによって故郷を懐かしく

思うことがあった。

彼は故郷にいた頃よく裏山に登った

はてしない日本海の向こうが見たかったからである。

しかし,山に登っても海は、

山に登らずに見た海と同じであり

それよりも、彼を驚かしたことは

海よりもはるかに変化に富み

そしてどこまでも続く山が背後にあったことである

彼が故郷の山に向かって感じたことと

同じことがここにもあった

孤高の人 新田次郎著

山から降りてくる加藤を目撃した教官の外山に

加藤は、山が好きなのかと尋ねてられても

「好きでも嫌いでもありません」と

答えている。

海が見たかったからとちょっとはぐらかすように

鬱陶しさを感じながら答えている。

近代登山家の祖とも言われている

加藤文太郎であっても

登山をする動機は、他者に堂々と話す程の

動機はないのだろうか。

「いや、よそう、おれは山へ行くことにしたんだ」

加藤は同僚の金川に主義者(活動家)たちの

胡散臭い勉強会に誘われるが

このように言って断り山へ出かけている。

加藤にとって山へ行くことは

嫌なこと、辛いことから逃げるための

行動だったようだ。

煩わしい人付き合いを避けるために

登山を利用していたのだろうか。

私は一人で汗を流すために山へ行くんです

加藤は山道を歩いていると

教官の外山がロッククライミングの指導をしている

岩壁に出くわす。

外山はこことばかり呼び止め

「やってみるか?」と声を掛け

登山の才能のある加藤を山岳会へ勧誘しようとするが

キッパリ断る。

加藤にはいろんな道具を使い

複数人をロープでつなぎ合って登る

登山スタイルが理解できなかった。

何故そうするのか外山に加藤は尋ねると

「なんで山登りなんかするのかと全く同じくらいに

答えるのはむずかしい」

孤高の人 新田次郎著

と外山から言われた加藤は

山登りの理由を作中でそう答えた。

汗をかく遊びで一番自分の肉体条件にあっている

といっている。

加藤には他者と一緒に登る事が当たり前な

外山の気持ちはわからない。

「行けない山のことなんか興味ありません」

六甲山系を自由に歩き回るその速さやその姿が

他の山岳会から一目置かれるように

自分の体力、登山技術が知られるようになると

加藤は、登山家たちの切望に耳を傾けることになる。

加藤にとっては

世界の見た事もない8000m級の山など

関心の無いものだったが

山岳会の藤沢の

「行けないと思い込んで行こうとしない地図にもない山」

の話を聴いて

自分の力を試したい気持ちに

登山の動機が変化していくことになる。

冬山山行の孤独感

加藤は冬の八ヶ岳山行の後

山に対する認識を変えることになる。

今までの登山は登山ではないとさえ

思ってしまっている。

加藤の耳の奥に鳴り響いた風の音や

首筋に差し込む刀のような冷たさが

加藤に「孤独」を味合わせた。

あの孤独こそ山の魅力であり,妥協を許さない、

峻厳な寒気こそ山に求めていたものであることが

わかるとじっとしてはいられなかった。

孤高の人 新田次郎著

冬山の経験は登山の大きな動機と

なり得るのか。

山はけちんぼ

加藤からは珍しく好山荘の志田に

「あなたは何のために山へ行くのですか」と

聞いた。

志田は「うるさい女房の顔を見ないで済むから」

とはぐらかされるが

志田は加藤がそんな質問をすること自体を

危険だと諭している。

冬山の孤独から山行途中にあったパーティーに

同行させてもらいたいと訴えるが拒絶され

案内を雇う金がないなら山に来るなと

言ったパーティーが全員命を落として

加藤だけが助かった状況を

山の摂理の中に、言葉にも筆にも,ましてや

科学で証明されることもできないなにかがひそんでいる

気がした。

山の神秘などと簡単に片付けられるものではなかった。

超自然的な四次元の世界が

あの白いあらしの世界に存在するのかも知れない。

孤高の人 新田次郎著

と表現している。

その何かわからないともしびにようなもの

に導かれるような冬山登山の奥深い魅力に

急激に惹かれていっている加藤に

志田はわかったような気持ちになるなと

山はそんな簡単になぜ登るのかを

教えてくれないと諭す。

単独行の加藤文太郎

外山から冬山に囚われた加藤に

誰かと一緒に行くようにと勧められる。

その方が安全で楽しいだろうと言うのだ。

その時、加藤は

「登山にも楽しみがあるのだ」

「そういえば同行したかった死んでしまった

パーティーも楽しそうだった」

「彼らはそれを妨害されないために

自分を拒否したのだ」

と心の底をえぐられたような気持ちになる。

それでも、他人に煩わされず

自分のペースで行きたいところに行く方が

自分自身にはあっていると

加藤は思っていた。

一人で登ったことで

一人だけ命が助かった経験をしたら

「単独行」のみが命の保障をし得るので有れば

ますます何のために山に行くのか

わからない。

少なくとも

加藤にとって「楽しむ」というのは

登山の動機ではないのでしょう。

山の特権階級に挑戦する

社会人登山家として知られてきた加藤。

山はおれたちだけのものだと思っている

特権階級から山を取り戻そうとしている

われわれ庶民の英雄です

孤高の人 新田次郎著

それまでは日本の山を特権階級のものとして

山小屋,案内人も

山の貴族たちの従属物のように間違った考えを

一部の登山家はもっていた。

案内人の雇えない、道具も手作りで

揃えられない一介のサラリーマンが登山で

活躍されると目障りなのだ。

そんな旧態依然と戦うシンボリックな

存在になることが

加藤の登山の動機になってもおかしくはない。

でもそれは他者から見た加藤の姿で

本人はいたって

それを登山の動機にしていない。

「山が呼んだんだよ、山が」

加藤は結婚をし 守るべき人たちができて

今までのような冬山登山はもうやめることを

決意していたが

加藤に憧れ,付き纏っていた可愛い後輩の

北鎌尾根への

山行への誘いを断ることができなかった。

加藤はこれまで単独行だったため

他者と一緒に登ることはなかったが

これからは安全のために誰かと登る方が

良いと考え始めていた矢先の誘いだった。

でも子供が生まれたばかりで

この時期に登るのは理性的ではなかった。

いろいろと加藤は今登る理由を

必死に取り繕うっているようだった。

そんな加藤を最後に山へ向かわせものは

何だったのか。

「素晴らしい実に素晴らしい山だ」

加藤の唇から言葉が洩れた。

それ以上にはげしい感動をこめた言葉を

眼の前の美しいものに

投げてやりたかったが適当な言葉が見つからなかった

もどかしかった。

いったいこれほど美しいものが

この世にあるのだろうか、

それを静視するだけで去ろうとする者に対して

静止力を持っていた。

絶頂に立ってこの千載一遇の輝きの中で

全身をひたしたいと

矢も盾もたまらない気持ちだった。

孤高の人 新田次郎著

加藤の頭の中には

一緒に来た宮村も花子もその子供の

登志子さえもいなかった。

ただこの槍の穂に取り憑き

登りたいだけだった。

まとめ

とにかく人にはよく聞かれる

「何故山に登るのか」

作中ではわからないまま死んでいくと

書いてありました。

山登りは息も切れて,

時に吐き気を催したり

前が見えなくなるほど汗をかいたり

虫に攻撃されたり,吹雪に晒されたり

もう一歩も踏み出せない程足が痛くなったり

重たい荷物を背負って肩がもげそうになったり。

それでも,家で疲れが癒えたら

次はどこへ行こうかと矢も盾もたまらず

行ってしまうこの気持ちを

他者に言語化して伝えるヒントが

この作品には

あるのではないかと読み進めましたが

山をそもそも登らない人には

伝えることのできない、風景描写があり

難しいなあと感じました。

これは結局ただの自己満足なのでしょうか。

加藤のように、だんだんと登山の目的が

酔狂になっていくと

命まで差し出してしまいそうで怖いです。

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