【トロッコ問題】AIに殉職が理解できるのか?『塩狩峠』三浦綾子著

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この物語のラストは

一人が大勢の人を救ったものでしたが

とても、残念に思ってしまいました。

なぜなら、物語の大半は

この物語の主人公信夫がいかに

愛されるべき存在かということを

これでもかと盛り込んだ

作品なだけに

最後の信夫の犠牲は

読者に感動と疑問を抱かせるもの

だったのではないでしょうか?

それで、思い出したのが

「トロッコ問題」。

“人間が道徳心から生まれるジレンマ“

に対して

どう対応するのかを見る

人の倫理観を問う実験で

マイケル・サンデルの

「白熱教室〜これから正義の話をしよう」

でも取り上げられて有名になりました。

これから

自動運転になっていくであろう時

“人工知能“AIに

この倫理観がわかるのでしょうか?

トロッコ問題とは

フィリッパ・フットが1967年に提起して

いろんな学者が考察を行ったもので

人間は倫理的・道徳的なジレンマを

どう解決するかを問うものです。

線路を走っていたトロッコの制御が

不能になった。

このままでは前方で作業中だった

5人が猛スピードのトロッコに

避ける間もなく轢き殺されそうです

この時たまたまA氏は線路の分岐器の

すぐ側にいました。

A氏がトロッコの進路を切り替えれば

5人は助かりますが

切り替えたことによって

切り替えられた新たな路線の方に

B氏が1人が作業していて

5人の代わりにB氏が轢かれてしまう。

A氏はトロッコの

進路を変えるべきなのか?

トロッコ問題 ウィキペディアより

「多くの人を助けるためなら、

 1人を犠牲にしても良いのか?」という

ことが倫理上、道徳的にどうなのかという

問題になるのです。

『塩狩峠』信夫の場合

信夫は裕福な家庭(士族)に生まれますが

父親が亡くなったことや

母親がキリスト教徒だったのも

あり段々とキリスト教という

信仰に興味を抱きます。

そして、完全に洗礼を受けることに

なったきっかけは

信夫の愛したふじ子はいつ治るか

わからない病(脊椎カリエス)で

寝たきりになっている時

この人を生涯想い続けることが

できるかと考えた時

キリスト教を信仰していた

ふじ子の振る舞いに強く惹かれ

ふじ子を生涯想い続ける決心を

することができたことで

信夫自身も深くキリスト教を

信仰することになったのです。

信夫を慕う人びと

信夫の母親は、敬虔なキリスト信者で

時代がキリスト教を“ヤソ“と言って

罵っていた時代だったので

姑に家を追い出されます。

父親の貞行は正妻ではありますが

内緒で“囲う“ような形になり

息子の信夫は

それを知らなかったので

祖母が亡くなったので帰ってきた

母親に嫌悪感を抱きます。

「息子よりも信仰が大事なのか」と…

しかし、離れていた分

母親を恋しいと思う気持ちもあり

母も信夫を大切に思っていることを

知ることとなり

母親への思いと

立派な父親も

母に信仰をやめさせなかった

ことから

キリスト教への理解が徐々に

育まれていきました。

そんな信夫は妹の結婚を機に

ふじ子の住む北海道へ行きます。

ふじ子はもともと足が不自由な上に

結核から脊椎カリエスになり

寝たきりの状態で

未来が見えない状態でした。

けれども、病床のふじ子は美しく

清らかな涙を流す様子に

心奪われ、

ふじ子と母親の信仰している

キリスト教へ入信し

ふじ子を生涯愛すると誓います。

のちに病気は回復し

長い間待った甲斐あり

結婚することになります。

東京の母親も喜び

自分がふじ子をサポートすることを

提案し

そのことで、信夫は故郷に残してきた

母親をこれからはふじ子同様大切に

すると誓います。

信夫は北海道で小学生時代の同級生で

ふじ子の兄、

吉川が父親の借金のため

東京から北海道に夜逃げ同然で

去って行ったにも関わらず

ずっと親交を深めていましたが

この度、北海道にきた信夫は

吉川と同じ鉄道会社に職を得ました。

職場では和倉という上司が

三堀という同期を庇った

信夫に感銘を受け、

自分の娘の美沙を紹介するが

ふじ子を思う信夫はこの縁談を断り

いつ治るかわからない女性を待つと

決断した信夫を改めて尊敬することになる。

美沙も自分が断られることが

残念で、腑に落ちないほど

信夫に好感を抱いていた。

自分を犠牲にして乗客全員を救った

信夫はふじ子が回復したことによって

結婚が可能になり、

札幌のふじ子の家に

結納を持っていくために旭川の駅を

出発した汽車に乗った信夫は

天塩と石狩の国境にある

塩狩峠にさしかかった時

汽車の暴走に気づき

自らを轢かせて汽車の暴走を止め

乗客みんなの命を救ったのです。

みんながこの行為に感銘を受けました。

神に召された信夫

信夫の残した言葉をふじ子は

思い出します。

「ぼくは毎日を神と人のために

 生きたいと思う。

 いつまでも生きたいのは無論だが、

 いついかなる瞬間に命を召されても、

 喜んで死んでいけるように

 なりたいと思いますね。」

「神のなさることは、常にその人に

 最も良いことです。」

『塩狩峠』三浦綾子著

まさしく、信夫の行為は

人命救助のための殉職になります。

1人の命で多くの人を救ったのです。

本書の初めに

「聖書」の一節が書かれてあります。

一粒の麦、

地に落ちて死なずば、

唯一つにて在らん、

もし死ねば、

多くの実を結ぶべし。

『新約聖書』 ヨハネ伝 第一二章 二四節

一粒の麦が落ちて

多くの実(人)を助けたということです。

5人を助けるために1人を殺してもいいのか

信仰や信夫の気持ちは別にして

これをトロッコ問題として

考えればどうでしょう?

功利主義に基づくなら

確かに、1人を犠牲にして

多数を助けるべきでしょう。

しかし、道徳論で言えば

人の命を誰かが他の目的のために

利用するべきではないという

観点から考えれば

信夫の死もそんな

祝福されたものではないと

考えられると私は考えます。

これだけの人に愛された信夫を

失った人たちは

死ぬような苦しみを味わうでしょう。

(本書では神に祝福される死と喜んでいる)

本書を読んで、疑問に思ったのは

一つの命の意味は

万人を救う以外にもあると

思えたからです。

A Iはどう判断するのか?

宗教を持たない人工知能は

このような場合どうするのでしょう?

誰か一人を犠牲にして

多数の命を救う

「信夫」的思考をするのでしょうか?

暴走した列車に

乗り合わしてしまった私に

AIが「殉職」と言いながら

私をつまんで列車の前に

「置き人」し、

「これで、多数が助かる!」とか

言ったらどうしようかと思います。

これは誰もができることではないと

いうことをAIに理解してもらえるか

心配ではあります。

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