やる気を示すことができない 『やりがいのある仕事という幻想』森 博嗣著

やりがいのあり仕事という幻想やりがいのある仕事という幻想
スポンサーリンク

面接に臨む若者は

仕事に対してやる気があるところを

見せなくてはならないと

躍起になっているのですが

この“やる気“や“やりがい“とは

一体、どういうものなのでしょうか。

企業戦士の時代

仕事は戦いだという戦後の

何もかも死に物狂いでやるという時代

そして、

それらから教育を受けた者にとって、

そうでない者は、

臆病者で怠け者で脱落者だという

そんな価値観がある。

企業にとっても

このような考えを持っている社員は

それこそ「戦力」として頼もしい限り

という時代が今の子供の親の代まで

あったのです。

そして

「気合を入れろ」

「気持ちの問題だ」

というような精神論が会社では

まかり通っていました。

また、就職に有利になるために

学歴がものをいう時代でもあり

「受験戦争」も経験している。

学校も今のように伸び伸びと

子供を育てるというよりも

軍隊の名残のような

集団での生活で規則を守り

同じことを皆で同時にすると言った

ことが当たり前で育ち

勝ち負けがないものには

興味を示さず“闘争心“で

物事に取り組もうとする時代の者が

企業の面接官であり

親や先生や上司であるのです。

今の若い側が

それら“年寄り“の価値観に合わせようと

するのは

そのように育った親とか先生とか上司が

権力を持っていて、それに従って

気に入ってもらわなければ

自分の立場が危うくなると

思っているからです。

こんな考えから

若者たちは「やる気」や「やりがい」を

アピールしなければならない

状況に立たされ、

そもそも「やりがい」というものが

どんな概念なのか

知らないのに、

言葉だけそう言って気に入ってもらおうと

振る舞っているうちに

自分でも、言葉だけだ

「そういうものがあるはずだ」と

信じ込んでしまっていると

著者は本書で言っています。

「仕事のやりがい」などそもそも

答えられるものでもなく

表現できることでもないのです。

「やりがい」とは何か?

「やりがい」というのは

他者から

「はい、これがあなたのやりがいですよ」

「楽しいですよ、やってご覧なさい」と

与えられるものではそもそもないのです。

ところが今の子供は

ゲームもアニメも他者から与えられた

もので、

ほとんどの楽しみが

親や他者から与えられたものなので

「やりがい」も

きっとそういうふうに

誰かから貰えたり、用意されていると

勘違いしてしまっている。

しかし、そんなものは存在しないにも

かかわらず

そういうことに好意的な面接官に

気に入られようと

「やりがい」や「やる気」を答えようと

必死になるのですが

どれも本当の意味の

「やる気」「やりがい」ではないのです。

「手応え」がやりがいではない

自分の能力不足であったり

準備不足であったり、計画が甘すぎて

うまくいかなかったために

苦労を強いられたことができたから

と言って

それを「やりがい」とは言わないと

著者は本書で言っています。

「やりがい」は人が羨むものでない

著者がいう「やりがい」とは

えてしてこのように周囲に妨害される

ものだと記しています。

みんなが嫌な顔をする、

もっと酷い場合は、迷惑だと言われる

ことのようです。

でも、

自分はそれがやりたくて仕方がないもので

この時受ける「抵抗感」こそが

「やりがい」であり、その困難さを

乗り越えることが「楽しみ」の本質だと

言っています。

「やりがい」は人気のある会社に

就職し、人も羨む美形と結婚し

絵に描いたような家庭を築き

マイホームを購入して

という生活を送っているからと

言って人生の「やりがい」を

見つけられない人が沢山いるし

偏差値が高いから

この大学に入った、

この学科を選んだ、というのも

たまたま能力的に勝っていたため

あっさりと手に入ったけれど

自分の選んだ道ではない。

その「人が羨む人生」に縛られて

いるようでは

自分の「やりがい」など見つけられる

はずがないのです。

コメント