①引きこもり青年は自由ではない『凡人として生きるということ』押井守著

凡人として生きるということ凡人として生きるということ
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「人間は自由であるべき」と

フランス革命でも掲げられたように

自由は尊いものとして扱われたが

飢饉や厳しい年貢の取り立てで

苦しんでいた時代なら

「生きむく」ことが

“自由の価値“になり得たのですが

このような搾取された時代も終わり

今日一日を生き抜くことが

人間の動機ではなくなってしまった中で

ひきこもり青年は

自由な存在ではなくなってしまった

のです。

本当の自由とは

一体、どういうものなので

しょうか?

不自由とは何か

自由とは何かを考えた時

不自由の反対となるから

“不自由“とは何かを考えてみるのが

良いのではないかということを

本書の著者が言っています。

不自由と言えば思い当たるのは

「結婚」し「子供」をもち

年老いた「両親」を持つことなどが

パッと考えて思いつく

不自由の要素ではないでしょうか。

孤独こそがこの世の最高の自由だ

では、

これらの要素を全て取り除いて

暮らしていけば「自由」を手に入れた

ことになるのでしょうか?

確かに状態は“自由“ではあります。

もっと、極端に言えば

無人島で一人で暮らすのも

“自由“と言えるでしょう。

では、この“自由“に価値はあるのでしょうか?

砂漠の真ん中で「自由だ!」と叫んで

見たところで

さて何ができるでしょう。

このように他人との関わりを拒絶し

誰とも会話せず、

食事はコンビニで済ませ

ビデオを見ながら明け暮れていく

そんな人生もいいでしょうが

だからと言ってこれを

“自由“とは言わない

“不自由“な生き方だと本書では

記しています。

他人から必要とされていること

毎朝、決まった時間に起き出社し

仕事をして帰るを繰り返している

「オヤジ」の方がよっぽど

“自由“と言えるということなのです。

それは

会社と家族と結びつき

少なからず

人に影響を与えているからです。

会社や家庭という“社会“の中で

人は自分の位置を求め

それに伴い

やりたいことが出てくる。

逆に引きこって自由な時間を

自分のためだけに使って生きる生活では

やりたいこと、やるべきことが

どんどんなくなっていきます。

このように

他人から必要とされていない人間が

「俺には自由がある」といったところで

虚しい繰言にしか聞こえないのです。

人との関わりを放棄して得た

「自由」には自由というだけで

「価値」はないのです。

人生を選択し続けることができる自由

他者を排除し、自分の殻に

閉じこもっていると

本当の自由を得ることが出来ない、

外部のものを自分の内部に取り入れる

ことをしていく必要があるのです。

そのためには

もっといい人と巡り合うかも

しれないと拒否し

結婚もしない、故に子供も生まれないし

もっといい仕事があるかもしれないから

仕事をしないし

もっといいものがあるかもしれないから

買わないしを繰り返し

選択から逃げていると

心の“豊さ“というものを増していく

ことができないでしょう。

この豊さを増やしていける“幅“を

「自由」と本書では記しているのです。

まとめます

朝、誰にも起こされない。

今日一日どう過ごしてもいい。

起きて、メシを食って、ネットに

アクセスして、眠たくなれば

寝ればいい。

社会から逃げ、家族からも逃げて

自分の世界に引きこもっていることが

「自由」ではないということは

実際、引きこもってみると

すぐにその不自由さに気がつくこと

でしょう。

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