この物語は宣教師ロドリゴの生涯を
中心に書かれた本ですが
日本人の「キチジロー」はこの
高尚で誇り高いロドリゴと対照的に
描かれたこの物語の重要な信者です。
同じキリスト教信者でも
全く違うのです。
本書では、日本の信者と教会の司祭との
同じ教徒間での信心の違いも浮き彫りに
されています。
特に特記すべき存在が
キチジローです。
今回はこのキチジローについて
書きたいと思います。
あらすじ
島原の乱が鎮圧され、
日本で布教活動をしていた宣教師たちの
行方や活動がわからなくなった
ローマ協会は
日本に師を失った教徒のために
新たに宣教師を送ることとなった。
それはとても危険なことだったが
厚い信仰心を証明するかのように
二人の宣教師はマニラであった日本人
キチジローの助けを得て
日本に潜入することに成功する。
そこでは二人が想像していなかった
教徒に対する残忍な拷問と悲惨な殉死を
目の当たりにする。
その悲痛を聞くにつれ
誇り高い宣教師の自尊心や使命感が
尽く崩れていく様子が描かれ
ついには宣教師ロドリゴ自身が踏み絵に
足をかけることになる。
何回も踏絵に足をかけるキチジロー
この男は家族がキリシタン狩りにあい
踏み絵を踏むように迫られる中
決して踏もうとしなかったのに
自分一人だけ踏み絵を踏み
解放され、家族が生きたまま火破りに
なっているのを
そばで直視していた男。
家族の焼ける臭いを忘れないためが
その理由。
それからも気が狂ったような状態で
マニラまで逃げ、そこで日本に向かう途中も
ロドリゴたちに出会う。
酒に溺れ、ボロボロの男を見て
信者とは信じられない様子のロドリゴ。
しかし
この男の導きで日本に潜入することが
できた。
よほど、信者と思いたくないような男
だったのかロドリゴは
「金はある。日本に案内してくれ。」
などと言ってしまうほどだった。
キチジローはユダだった
それからも気の弱いキチジローは
村人に頼まれてロドリゴたち司祭の代わりに
人質になって欲しいと頼まれ
引き受けるが踏み絵を出されれば
すぐ、踏みつけてしまう。
ロドリゴがやっと信者によって
逃された途端、密告してしまう。
しかし、なぜがロドリゴが引っ立て
られている後をついて行って
「俺はキリシタンだ。」と言って
ロドリゴの牢屋までついてくる。
そこで、懺悔。許しを乞う告悔を求める。
戸惑いながらこんな者も救わねば
ならぬのかロドリゴの自答が繰り返される。
そこで、前から疑問に思っていた
キリストがユダに言った
「去れ、行きて汝のなすことをなせ」
ユダを突き放すような言葉。
キリストは何人も救うのでは
ないのか?
ユダを見放すのか?
このことをキチジローを通して
ロドリゴは理解しょうとする。
キリストはロドリゴに「踏むがいい」と
言ったように
そうゆう意味でキチジローの
存在意義は大きい。
キチジローの中の主とは?
この男の裏切りはこの後も続くが
ロドリゴが棄教した後、
岡田三右衛門になってからも
キチジローはロドリゴの側を離れない。
そして、密かにそれを拒否する
ロドリゴに司祭として告悔をせがむのだ。
ロドリゴからしてみれば
あんなに裏切りながらなぜ?と言った
ところでしょう。
キチジローはロドリゴを通してキリストに
救いを求めているので
ロドリゴのことは何回でも
失望させても平気なのでしょう。
キチジローにとってキリストは
どんな自分でも受け止めてもらえると
信じられる主なのです。
ロドリゴもキリストにとってはユダだった
棄教し宣教師としての役割を破棄した
ロドリゴ。
“転びのポウロ“と呼ばれ
軽蔑の対象となった彼だが
今でも司祭としてすがるキチジローに
聖職者としての秘蹟を与える。
自分のような裏切り者が告悔を聴く
資格はないのだが
ロドリゴ自身の中ではキチジローのように
信仰は続いている。
信仰心に強いも弱いもなく
どちらにも深い苦しみが存在する。
ロドリゴは
自分の弱さを懺悔するキチジローに
悔いることはないと諭すのでした。
まとめます
迫害を受けて殉教して行った信者たち
島原の乱から数万人の人にもなる。
その人たちの死は、
最後まで髪を信じ抜いた高尚で美しい
信心深いのかもしれないが
これは神が成した救いなのか?
生にこだわり、死すらも安息を求める
弱いキチジローの方が誰よりも
神を必要としている存在なのだ。
そのことに、ロドリゴは生涯をかけて
気づいたのである。
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