【感想】沈黙 遠藤周作著 ① 信仰の根源的な問題

沈黙沈黙
スポンサーリンク

2016年に映画化され、1966年新潮社より刊行。

本当に苦しい生活の中、

それでもこの世に生を受けた限り

その命が尽きるまで

生きなければならない。

そんな時、精神の拠り所として

宗教の存在が大きくなる。

本書では

キリスト教布教を通じて

信仰は本当に人を救えるのかを

江戸時代の長崎のキリシタン弾圧を

題材にして宗教とは何かを私に

深く考えさせるきっかけと

なりました。

神とは一体なんだったのだろうと…

あらすじ

島原の乱が鎮圧され、

日本で布教活動をしていた宣教師たちの

行方や活動がわからなくなった

ローマ協会は

日本に師を失った教徒のために

新たに宣教師を送ることとなった。

それはとても危険なことだったが

厚い信仰心を証明するかのように

二人の宣教師はマニラであった日本人

キチジローの助けを得て

日本に潜入することに成功する。

そこでは二人が想像していなかった

教徒に対する残忍な拷問と悲惨な殉死を

目の当たりにする。

その悲痛を聞くにつれ

誇り高い宣教師の自尊心や使命感が

尽く崩れていく様子が描かれ

ついには宣教師ロドリゴ自身が踏み絵に

足をかけることになる。

二人の宣教師

キリスト教弾圧の真っ只中の長崎に

果敢にやってきた二人の宣教師。

この二人の宣教師はそれぞれ違う運命が

待っていました。

フランシスコ・ガルぺの場合

ガルぺは信徒にいかなる場合も

信仰を捨ててはならぬと

力強く布教していきます。

信徒の百姓たちが奉行所に

引っ立てられる際も

踏み絵を踏むことを勧めませんでした。

しかし、自分の目の前ですでに踏み絵を

踏んでしまった信徒が

自分が棄教しないばかりに

次から次に海に投げ入れられるのを

見て、

自分も一緒に海へ沈んで行きました。

宣教師は例え弾圧によって殉死していく

信徒を目の当たりのしても生き残り

宗教を途絶えさせてはならない使命が

あるのですが

いわいる“転ぶ“(棄教)はできず

一緒に死んでいく道を選びました。

セバスチャン・ロドリゴの場合

上記のガルぺの様子を見せられ

落胆したロドリゴ。

これまでも自分を信じついてきてくれた

信徒たちはキチジロー以外は全員惨たらしく

殺されていき、

それでも棄教しなかった。

最後の宣教師になってしまったロドリゴを

虐待することなく

徐々に確実に追い込んでいく

奉行の井上築後守と通辞役の侍。

そして、かつて20年間イエズス会の

地区長として輝かしい仕事を

日本で続けていたフィレイラ師の棄教。

「日本ではキリスト教は根付かない」

とはっきり言われてしまう。

決定的なことはもう寝返った

百姓たちを利用して

ロドリゴ自身を“転ばす“こと。

そのための百姓たちをこれでもかと

虐待する光景を見せつけられる。

その時初めて神の声をきくロドリゴ。

踏むがいい。

お前の足の重さがこの私は一番知っている

踏むがいい。

私はお前に踏まれるために

この世に生れ、

お前たちの痛みを分かつために

十字架を背負ったのだ。

沈黙 遠藤周作著

あんなに神からのお告げを

待ち続けているのに『沈黙』を守りつつけた

神の言葉をようやく聞くことができたのです。

そして、

棄教することで虐待された百姓たちは

救われたのです。

まとめます

皮肉にも神の声が聞こえたのは

棄教する時だったのです。

キリスト教を信仰する背景には

年貢や貧しい生活で

生きるのが死ぬぐらい辛い状況で

あったため、救いを求めたくて

この弾圧の中でも心が平安させてくれる

キリスト教を捨てることができなかった。

ロドリゴは恵まれた環境なら

信仰の普及は容易であったと考え、

迫害の時代でなければと考えて

いたけれども

民衆が迫害され蔑まれる時代でこそ

布教されるべきで物なのです。

しかし、その布教が信者の命を奪うもの

ならば、

それはもう人々を救う愛の所業では

なくなるということを

著者は言いたかったのでは

ないかと思いました。

沈黙 遠藤周作
スポンサーリンク
スポンサーリンク
inuimieをフォローする
スポンサーリンク
ぽつのブログ

コメント