【看取り】栄養補給よりも大事な11項目『それでも病院で死にますか』尾崎容子著

それでも病院で死にますかそれでも病院で死にますか
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家族の死に

直面するのは辛いことです。

もうあと幾ばくかの命ではあっても

食事もできず

弱っていく大切な人に

何もせず、

見守るのは相当の精神力が必要に

なってきます。

こんな時、無理に食事を勧めたり

点滴をしたり、

胃ろうを増設したりと

何かアクションをしがちですが

そんなことよりももっと

大切なことがあると

在宅医療支援医の著者が

本書に記しているので

紹介します。

看取りを前に家族に話すべき11項目

病院ではなく最期を在宅で

看取ることを決めるにあたって

患者さんの家族に話すべき要点を

11項目ここでは紹介します。

1、死ぬことは悲劇ではない

人は生まれてきたら

最期の日を迎えることは

決まっています。

それは自然なことなのですが

その別れが予期できないもので

あったり

あまりにも急激であったり

痛みや苦痛を放置されたり

誰にも顧みられないことは

悲劇ではあります。

なので、それらを緩和できれば

死を悲劇と捉えることはない

ということです。

看取る側も悲しみばかりではなく

その場にいることによって

かけがいのない経験となる

ことになると

著者は記しています。

2、亡くなる前には「弱り」が出てくる

悪性腫瘍の場合などは最後の一ヶ月前

ぐらいまでは

元気いっぱいでも

最後の一ヶ月で

急速に弱りが出てきます。

このことは

あまり一般に知られていないので

慌ててしまいますが

これは生理的なことなのです。

その弱り方は階段状で

ガクッと落ちて数日同じような

状態かと思ったら

またガクッと落ちてと

いった感じです。

できないことが増えてくると

患者さんは不安になって

「だめだ!」

「もうおしまいだ」と

悲しむこともありますが

そんな時は

「たまたまよ」

「そんなことないよ」と

いうのではなく

「本当だね、できないことは一緒に

 手伝うからね」と

受け止めてあげてほしいと

本書には記しています。

3、最終的に人は食べれなければ死に至る

病因によって経過は違いますが

徐々に食事が入らなくなります。

老衰の場合は食事が入らなかったり

また食べられるようになったりして

見極めが難しいようですが

悪性腫瘍では

食べれなくなってからの

経過が早いなど

病気によってさまざま

ありますが

基本的に食べれなくなれば

死に近くなります。

介護をしている人は

食事を食べさせなくてはという

思いが大変強くなります。

それは上記のようなことが

原因かもしれません。

しかし、ここで介護者や家族に

食事が入らなければ

それはもう食事が入らない時が

きたことを

しっかりわかってもらう

必要があります。

無理に食べさせたら

“誤嚥性肺炎“になったりするからです。

家族は

「先生、じゃあ食べられなくなったら

 食べささないって

大丈夫なのか?」と当然疑問に

思います。

「もう、食べられない時期がきたのです」と

著者は答えるようにされて

いますが

ショックを受ける家族さんは

「では治療法はないのか?

 栄養点滴はないのか?」と

いう疑問が出てきます。

それに対して

点滴で逆に苦しめることになると

いうことは専門的で

家族の方に理解してもらうのは

難しいようですが

点滴で水分を入れることによって

体に浮腫ができ

それが皮膚だけではなく

肺にまで水が溜まり

呼吸などを妨げたりします。

食べることができなくて

点滴もしないことで

「そんなふうに放っらかしにされる

なんてひどい!」と感じられる

家族の方が多いと聞きます。

このいてもたってもいられない

「なんとかしてあげたい」という

家族の気持ちを汲んで

浮腫が引いた状態なら

点滴をすることもあるようですが

周りが見守るのがつらいという

理由で行われる行為が

患者さん自身を逆に

苦しめていることも

考えないといけません。

例えば、胃ろうについても

条件によっては

苦痛を増す場合があります。

4、見守るということ

では、食事ができなく慣れば

胃ろうを選択せず、

点滴も行わないとすれば

「あとはご本人の満足度を高める

 ケアをしながら見守っていきましょう」

と説明すると

「じゃあ、先生はうちの親父を見殺しに

 するわけですね。

 見守るって言葉はいいけれど

 結局見殺しにするわけでしょう」

と著者は家族の方に言われたそうです。

確かに、点滴すらしないと言われると

そんな気がします。

このように強い家族の方の要望に

応じて処置をして行った時、

今度は患者さんが

「もう、殺してくれや。しんどいんや。」

と言われる経験をすると

著者は

「やはり、見守ることと

 見放すことは違う。」とはっきり

言い切れるようになったと

本書では綴っています。

見守るということは

病院に連れていくことでも

点滴をすることでもなく

口に押し込んででも食べさせること

でもなく

代替治療を積極的にすることでもなく

何かせずにいられず、

動き回りたい気持ちを抑え

あれこれバタバタしないで

じっと「見守る」ということです。

アクションとしては

「何もせず、ただ見ているだけ」と

いうことになりますが

精神的なエネルギー面では

「見放し」と「見守り」は全く

異なったことなのです。

5、食事が入らなくなった場合の対応

では、どう見守るのでしょう。

食べられなくなって

夢現のような状態になっても

“五感“ははっきりしてることが

多いので

コーヒーが好きな方なら

香りだけでも楽しめるように

してみたり

浮腫をとるマッサージや

暖かいタオルを当ててあげたり

あとは、風にあたりに車椅子で

散歩に行ったり

好きな音楽を聴いたりなど

喉にごっくんさせる以外の

口を濯ぐことなども

食べること以外の

満足を満たしてあげると

良いと本書では書かれています。

6、耳は最後まで聴こえている。

耳は呼吸停止、心停止しても

しばらく聴こえていると

言われています。

なので、最後の時も

しっかり話しかけることが

大切です。

7、死の前の呼吸状態

亡くなる前は

唾液が飲み込みにくくなるため

死前喘鳴(しぜんぜいめい)があります。

咳反射が弱くなり

ゴロゴロが喉に引っかかっている

ような音がして

周りの人は苦しいそうなイメージに

なります。

そして、下顎呼吸という

顎を上下に動かす呼吸で

これは舌が喉に落ちで

気道が狭くなっているのを

少しでも広げようとする生理的な

行動です。

「ヒィィィー」のような狭いところを

無理やり通るような音がします。

8、「最期」は、実はわかりにくい

死の前の呼吸は

「チェーンストーク呼吸」といって

無呼吸と促迫した呼吸が交互に

くる息の仕方で

呼吸が

止まったかと思えば

また、始まるといった感じを

繰り返します。

かと思えば

死前喘鳴や下顎呼吸がない常態で

静かに息を引き取ることもあります。

このように

人の死は、実はわかりにくいのです。

9、「最期」に、家族が共にいる必要はない

これは意外だったのですが

ご家族が亡くなる瞬間を

見届ける必要はないということです。

「ずっと付き添っていたのに

 トイレにいった

 わずか5分の間に旅立ってしまった」

ということもあるということです。

もっと極端な例では

同じ部屋にいて本を読んでいても

患者さんが亡くなったことに

気づけないこともあるといいます。

静かに旅立ったり、

わずか5分や10分いなかった間に

息を引き取ることもあるのです。

上記でも記していますが

死はわかりにくいので

なんの前触れも感じることも

できないこともあります。

著者は日頃からいつ別れてもいい

心算をしておくことが大切で

仕事なども休まずいっても

良いし、

夜も心配であっても

眠っても良いといっています。

10、急変時にはどうするか

痙攣したり

極端に苦しそうにしていると

在宅で看取りと決めていても

救急車を呼び

病院へ搬送したくなります。

著者はそんな時は

救急車を呼ばないことを

勧めています。

救急搬送は終末期の人にとっては

苦痛を伴う処置をする

きっかけとなってしまうかも

しれないからです。

11、「最期」を迎えたら

呼吸停止となったら、

救急車ではなく

訪問診療の医師や訪問看護師へ

電話してください。

死亡診断は医師が行います。

慌てなくてもいいです。

連絡した後でゆっくり

お別れをしてください。

生と死の境目の曖昧さゆえ

亡くなってからも

その肉体が

急に怖いものになるのでは

ないのです。

それとよくある質問で

「家で死んだら、

 警察に連絡するんですよね?」と

いう方がいらっしゃるようですが

それは不要のようです。

訪問診療や訪問看護を受けている死は

まず、病死なので

あらぬ「嫌疑がかかる」ことは

ないようです。

事務的なことでは

医療用麻薬を使用していた場合は

薬局に返却が必要で

しかし、その費用は返ってきません。

酸素吸入や人工呼吸器も

返却しなければなりません。

まとめます

人の死に関わることは

ひと昔前では当たり前でしたが

ここ数十年は

病院で最期を迎えるのが

大多数でした。

ここ最近では在宅での死という

選択も選べるようになりましたが

人の死に対して不慣れな介護者たちは

戸惑いが大きいのは確かでしょう。

最近では在宅での死に

協力してくれる著者のような

医師もいらっしゃいますので

相談しながらであれば

十分可能なことだと思います。

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