②茶道は日常の中に偉大なものを認識すること『茶の本』岡倉天心著

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禅と茶のつながりはよく知られている。

茶道が禅の儀式を発展させたもので

あるが

道教の祖である老子の名も茶の歴史と

密接な関係がある。

本書ではどのようなところに

“茶道“と“禅“や“道教“が関連しているか

興味深いことが書いてあったので

紹介します。

客観的事実は存在しない

禅道は道教と同じく個人主義を

強く提唱している。

自分たちの精神の働きに関係しない

ものは

いっさい存在しないということである。

例えば、

二人の僧が風にはためく仏塔の幡(旗)

を見ながら

一人は「動いているのは風だ」といい

一人は「動いてるのは幡だ」という。

しかし、唐代の僧で禅宗の大成者である

第六祖慧能は、二人に

「動いているのは、風でも幡でもない

心の中の何かである」と説いた。

荘子、曰く「なぜ、私がわかる?」

道教の徒である荘子は友と川の

ほとりを歩いていた。

「魚たちはなんと楽しそうに泳いでいる

 ことか」と荘子は言うと、

「きみは“魚“でもないのに、なぜ魚たちが

 楽しんでいるとわかるのか?」

と聞かれると

「きみは“私“ではないのに、魚たちが

 楽しんでいることを私がわからないと

 どうしてきみがわかるのだ。」と

荘子は言い返した。

「一定」や「不変」でない「抽象」に思想がある

このように

“言葉“は思想の妨げにしかならないとし

どんな「仏典」を使っても

それは、ただの個人的思索の注釈に

過ぎないと著者は記しています。

外面の付属物は真理を認知する

ためにはただの邪魔者とみなした。

この「抽象」を受ける精神こそが

禅門の徒が彩色画より墨画を好む

所以でもある。

自分の中に“仏陀“を認める偶像破壊主義

禅門の徒が偶像や象徴によらず

自分自身のなかの“仏陀“を認めようと

努力した結果、担霞和尚は

木仏を打ち壊し、火を起こした

という話がある。

なぜ、そんな罰当たりなことを

したのかと尋ねると

「仏像を焼いて舎利(遺骨)を

 取ろうと思った」と答えると

「仏像さら舎利が取れるわけない!」と

反論されると

「もし舎利が取れなかったら、これは

 明らかに仏陀ではないと言うことで

 冒涜でもなんでもない」と

丹霞和尚は答えて火にあたっていた

と言うことです。

茶道は日常に“宇宙“を感じる心

禅が東洋思想に大きく貢献したのは

ありふれた日常のことが

精神的なことと同じくらい

重要だと認めたことであると

本書に記しています。

それは、ものことの大きさは

関係なく一原子の中のも

宇宙と同じくらい可能性があり

例えば、庭の草をむしりながら、

蕪の皮を剥きながら、

お茶を淹れながら、いくつもの

重要な議論が次から次へと起きていく。

“茶道“のいっさいの理想は

人生の些細な出来事の中に

偉大なものを認知するという

“禅“の考えからきている。

まとめます

目に見える“物質的“ものに

意味を求めず

日常の些細な出来事の中で

心が感じるこの“精神“こそが

茶道であり禅なのです。

茶の本
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