不完全なものを敬う心「生の芸術」『茶の本』岡倉天心著

茶の本茶の本
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この本は41歳になった著者が

1902年から5年間で書きあげた

本の中の一冊で

日本精神の真髄を海外の人にも

理解してもらおうと

英文で書かれ、

ニューヨークで刊行された本で

「茶道」を通して世界に日本の役割を

広く説明しようと試みたもので

それを和訳し出版された本書を

読んでみたいと思います。

「審美」や「内省」を重んじる日本

お茶ははじめは薬として用いられ

やがて、飲み物になる。

日本において喫茶は審美的な信仰に

まで高められ「茶道」が生まれた。

茶道は、

日常で風流に無縁な場所の中にも

“美“を見出し、それを賛美する心に

基づいた一種の儀式であり

純粋、調和、互いを思いやる慈愛心

社会秩序の理想を教える。

その根本は「不完全なもの」を

敬う心にあり

ままならない人生であっても

可能な限りやってみようという

心優しい挑戦だと著者は

記しています。

審美主義では片付けられない“茶道“

茶の思想は美醜を見分けることと

いうわけではない。

倫理や宗教とともに

あらゆる側面から、人間と自然との

関わり合いをみることができる

もので

“清潔“を求められる点で「衛生学」

“手間“と“お金“をかけず楽しむ「経済学」

“宇宙“に対するモノの大きさを知る

「精神の幾何学」

そして、お茶を嗜むと誰でも

趣味上の貴族になりうる点でいうと

「東洋的民主主義」の本質を

表したりする。

これは、日本が鎖国をしていたことに

より、独自の感性を磨く機会を得ていた

ことによるものでもある。

「茶気がない」とは?

これは人生の微妙な情感に

無神経な人を指す表現のようで

悲哀にも無頓着で、また

浮かれて、はしゃいでいる

手がつけられないお調子者も

「お茶らけ」と言って

非難される。

それは

茶道の精神は

住まい、習慣、衣食、陶器や漆器

絵画や文学に至るまで

影響しており

また、

茶道の精神は貴人、農民関係なく

広く染み渡り、花を生けたり、

山水を愛でるなど

日本の文化として浸透している

ためで

それを持ち合わせていないと

「茶気がない」「お茶らけ」と

揶揄されてしまう。

人間の喜びを入れる器は小さい

傍らから見ればなんでもないことを

わざわざ面倒に儀式にしている

ことは不思議なことかも

しれない。

しかし、人間の喜びを入れる器は

なにしろ小さくて、

涙を流せばすぐに溢れてしまい、

とまらむ渇きを潤そうとすれば

すぐに飲み干せるほどであることを

思えば、たかが茶碗をありがたがる

くらいで、責められることはなかろう。

「茶の本」岡倉天心著

お茶くらいでぐずぐずと

時間を費やしたと思われても

非難されることはないと

著者は言いたかったのでしょう。

そんなことよりも

酒に酔いしれたり

血生臭い戦いを美化したりする

ことの方がよっぽど非難されるべき

ことであり

お茶を嗜み、温かな思いやりの心に

浸る方が良いと記しています。

「生の術」に光を当てる

一般の西洋人は「茶の湯」を見て

東洋の数ある奇妙で子供じみた

風習の一つに過ぎないと思っている。

自分にとっての大事がじつは

小事なのだと気づかない人間は

他人の小事がじつは大事だと

いうことを見過ごしがちである。

「茶の本」岡倉天心著

「武士道」 我が兵士たちが自らを犠牲にして

戦う「死の術」には西洋でも話題になるが

作動などの「生の術」は露ほど光が

当たらないと記している。

戦争の栄光が文明国の証になるのでは

なく、日本人が持つ

“芸術“や“理想“に敬意が払われる

ことが大切だと示しています。

まとめます

茶道を通して

西洋に東洋を理解させようと

します。

当時のロシアとの戦争で勝利した

ことで、血生臭い「武士道」が

日本のイメージとして光があたり

本来の日本が重んじる審美や内省に

敬意が払われないことを

著者は残念に思い

このような本を刊行することと

なったのでしょう。

茶道という「生の芸術」ならではの

「不完全なもの」を敬う心が

ままならない人生には救いとなる

ことなのでしょう。

茶の本
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