【感想】下手な「論語」より孔子がわかる?『弟子・ていし』中島敦著

山月記弟子
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“孔子“といえば「論語」でしょうと

思っていましたが

ある本で“孔子“を知りたければ

「論語」より本書を読んだ方が

“孔子“についてよくわかるという

ことを知ったので

一度読んでみようかと

思いましたよ。

山月記などで有名な中島敦が

「論語」を原典とし書いた短編小説で

(ウィキペディア参照)

没後に発表された作品ですが

読みが浅かったのか

確かに“孔子“がどんな人物だったか

わかったけれど

やはり、弟子たちのことが

際立って魅力的に書いてありましたね。

しかし、小説だけあって人間らしい

孔子と弟子との関わり合いの中で

描かれている

人物像はイメージしやすいのは

確かです。

特に印象に残ったところを

紹介します。

子路、孔子を見初める?

このような人間を、子路は見たことがない。

「弟子」中島敦著

このような書き出しから始まり

孔子を褒めまくる場面がしばらく

続きます。

例えば、

孔子は怪物めいた異常さはないのし

非凡でもなく目立つ訳でもない。

しかし過不足がなく均衡のとれた

豊かさは、子路にとっては初めてみる

人物だったのです。

しかも闊達自在でちっとも道学者臭も

ないが、鋭い心理的洞察力がある。

とにかく、

この人は何処へ持って行っても

大丈夫な人だ。

潔癖な倫理的な見方からしても

大丈夫だし、

最も世俗的な意味から云っても

大丈夫だ。

「弟子」中島敦著

子路は今までみんなに役に立つ人が

“偉い“と思ってが孔子に会い

ただ、其処に孔子が存在するという

ことだけで充分だとすっかり

心酔してしまい弟子にしてもらいます。

孔子、子路の馴らし難さに驚く

子路はどちらかというと

長剣を手放せないほどやんちゃ系の人。

孔子は全てにバランスが取れている

人だったので

理論だけではなくこの猛々しい子路の

性格も受け止めはしているものの

何せ、自分に対して純粋な敬愛の情を

むけてくれる割には

「礼は形から」という形を嫌い

形式主義への

本能的忌避と闘っている子路を見ては

“馴らし難い“と思うのです。

子路は本(もと)がないのに形ばっかり

では嘘っぽくてダメでしょうと

思ってしまっているのです。

しかし、些細な日常の積み重ねで

中身が作られるのじゃと叱られて

「さすが孔子(師匠)!」とまた

関心してついていくのです。

こんな

考えが短絡で動作が素早い気性の荒い

様子を孔子は高く買っていました。

それは

この男の純粋な没利害性のことだ。

この種の美しさは

この国の人々の間に在りては

余りにも稀なので、

子路のこの傾向は、孔子以外の

誰からも徳としては

認められない。

むしろ一種の不可解な愚かさとして

映るに過ぎないのである。

しかし、子路の勇も政治的才幹も

この珍しい愚かさに比べれば

ものの数ではないことを

よく知っていた。

「弟子」中島敦著

形にはまらない考え方自体は

孔子は高く評価しています。

子路は全て導かなくても

方向を示すだけで自分で歩いていける

と孔子は思ったのです。

孔子、弟子を連れて旅に出る

時は紀元前770年中国春秋戦国時代。

もう細かく国が分かれています。

これらの国々は常に一髪即発の状態で

そのような状態なので

孔子は各国を周りながら参謀になるべく

自分の考えを説いて周りますが

なかなか採用されません。

旅をしている間、

孔子を手厚くもてなすところもあれば

邪険しするところもあります。

師匠の孔子を蔑むものが現れると

睨みを効かせて蹴散らします。

そんな子路を嗜めますが

内心、苦笑している孔子でした。

絶対普遍的な真理への一厘の警戒

子路はもう孔子には絶大なる信用を

置いている。

孔子の言うことは何人たりとも

逆らえない常に謬り無き真理だと

思っている。

しかし、子路は九分九厘は絶対信用を

起こされる孔子の弁舌の中に

僅かな警戒を要する部分があると

子路は思っている。

それは孔子が最初に出会った時に

“馴らし難い“部分とかぶってきます。

子路は孔子との旅の間

権力者たちの傲慢な振る舞いを

目の当たりにしても

それを強制的に諌めようとしなかった

ことに不服を感じています。

形ばかりに囚われて

“義“や“仁“に欠く権力者に

ゆるく接するのに合点がいかなかった

のです。

「見よ!君子は、冠を、正しゅうして死ぬものぞ!」

孔子は成長した子路を衛に残し

衛侯に仕えさせて

自分は故郷の魯に帰ります。

この時は子路も納得して

この地に残ります。

そして、仕えていた衛侯は反乱軍に

捉えられます。

そのとき、孔子の弟子で子羔は

もう無駄だから公宮には行っては

いけないと散々止めるが

振り切って内門に入ってしまう。

そこで簒奪者は大いに懼れ

子路を襲い敵の矛先が頬をかすめ

纓(冠)の紐が切れて落ちかかるのを

左手で抑えそのすきに肩に剣が刺さり

倒れるとまた冠が落ちるのを

手を伸ばして拾い、

正しく頭につけて纓の紐を結ぶ

その間にまた刺され絶叫する。

孔子は乱が起こったと聞いただけで

「子路は死んだ」とわかった。

感想

孔子はこのことがわかっていたから

理不尽なことも受け止めなければ

ならないということを

子路に教えたかったのだと思う。

救い出そうとした

蒯聵や姉の伯姫その子の子悝は

逃げて再び魯を治めている。

子路は無惨にも

塩漬けにされ晒されている。

孔子は家中の塩を捨て

生涯塩気を取りませんでした。

子路は最後に孔子の教え通り

冠を正し、礼を尽くして

死んでいくことで

一厘の警戒を解除したのです。

孔子は師匠として

このような無謀な子路を導きたかった

と思いますが

この“馴らし難い“ところは

子路の美点でもあり

孔子はどうすることもできなかった

のでしょう。

こういうところに“孔子“の苦悩や

人間の豊かさを知ることができたのは

「論語」より本作品の

おかげかもしれませんね。

弟子
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