【感想】①絶望の今に向かって走ってくる『愛、深き淵より』星野富弘著

愛、深き淵より愛、深き淵より
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明日は自分がどうなるかなんて

誰にもわからない。

どんな不幸なこと、絶望的なことが

起こる運命であっても

明日に向かって今日は走るしかない。

著者はその絶望の明日へ走って行って

しまった。

そして、その絶望の今日であっても

また、明日に向かって走らなければ

ならなかった。

その壮絶な日々を綴った闘病記録と

そこからあの絶望の日々へ走った

“今日“の自分では考えられないような

人々に感動を与える

詩人への道に向かっていく。

その修行ともとれる闘病生活を知り

絶望を味わった傷病者は

どのような壮絶な心境なのかを

綴った本書を読んで

自分は“今日“をどう生きるか

考えたいと思います。

人一倍、健康で力があった体育教師

著者は24歳で中学の体育教師だった。

着任二ヶ月でクラブ活動指導中

転落し、頚椎を脱臼し

なんとか命は助かるが

肩から下の運動、感覚機能を失う

脊椎損傷と診断され、

9年にも及ぶ闘病が始まる。

死はこんなに簡単にやってくるのか

さっきまであんなに元気だった自分が

“死んでしまうかもしれない“と

素直に受け止められる

人はいないでしょう。

著者も自分が重篤なのは

息苦しさや体が動かないことから

察していますが

現状を受け止めることはできません。

俺はまだ若いではないか。

死なんて、ずっと遠くにあるはずだ…

そんなことはない!!

絶対そんなことはない!!

息を吐きだすごとに自分に叫ぶ

ように言いきかせた。

愛、深い淵より 星野富弘

若くてスポーツマンであった著者に

とって

自分が死んだり、動けなくなることなど

頭の片隅にもなかったことが

起こってしまったのです。

そして、意識が遠のく中

自分の小さい頃のことがしきりに

頭の中に現れては消えていきます。

著者は死を目の前にし

あの幼くて幸せだったあの頃に

戻して欲しいと思うのです。

何もいらない。

今までの日々が全部無くなってもいい。

しかし、もう一度だけ

あの木の葉の中に自分をもどして

ほしい!!と思った。

愛、深き淵より 星野富弘

今に向かって走ってくる

著者が体育の教師になろうと

思ったきっかけは

大学時代からやっている器械体操を

続けたかったからだ。

学生の時は自分をわざと極限状態に

追い込んだり

器械体操では危険な技に憧れ

登山をしては常に死と隣り合わせの

経験もした。

それは常に自分の身を危険な所に

おくことによって

自分を強くしようとしていた、

そして、強くなれたと思っていた。

しかし、こうして

動けない、話せない現在の自分を

支えているのは

これら過酷な経験ではありませんでした。

本当の強さとは無力を知ること

しかし、こうして動けなくなり

話すことすらできなくなってしまった

今の自分を支えてくれるものは

これらの経験から強くなった

私ではなかった。

むしろ二十四年間に経験した

すべてが、こらから先に

無限につづくかのような

絶望へとつながっていたのかと思うと、

力つけてくれるどころか

すべて否定されたような

救いがたい悲しみとなって

私をズタズタに刺した。

愛、深き淵より 星野富弘

同じ状況になっても鍛えていたことに

よって余命は違ったのかも

しれませんが

どんな困難がこれから先起ころうとも

耐えられる精神を養っていたと

自負していた著者であっても

それがなんの役にも立たず

かえって過去の自分によって

傷つけられることとなったのです。

私は母の体内から出た時のように

素裸になってしまった。

自分の力で自分を生かすことも

できなければ

そんな自分を慰ねる言葉すら

何ひとつ持ち合わせていなかった。

人から与えられるもの以外に

私を生かしてくれるものは

何もないような気がした。

愛、深き淵から 星野富弘

かえって自分の弱さを際立た出す

こととなったのです。

著者はこれで自分の本来の姿になったと

思った瞬間でもありました。

この時

“自分はなんて無力なことか“と

感じられたことで

傷病前の著者にはなかった

本当の強さが備わったのでは

ないでしょうか。

走らなければならない

小康状態がつづく中、

著者はやたら小さい頃のことを

思い出したりしています。

その中で、その当時の心境を

綴った詩で印象に残った

詩があります。

思い出のむこう側から

ひとりの少年が走ってくる。

あれは白い運動靴をはじめて

買ってもらった日の

私かもしれない。

あんなにも あんなにも

うれしそうに

今に向かって走ってくる。

愛、深き淵から 星野富弘

こんな日が来るとも

知らず無邪気に過ごしていた

少年時代を綴っていますが

これは、過去を振り返って

後悔する詩としてだけではなく

明日も何があるかわからない

けれど

生きてきかなければならない

決意表明でもあるように

私は思いました。

歌人“星野富弘“となる前の

(なってからもか?)

修行にも似た闘病の日々を

垣間見ると著者が

健康・不健康関係なく

さまざまの人々を感動させる詩を

作り出される所以を

知ることができます。

感想・まとめ

この最後に紹介した詩は

著者の作品には珍しく

“お花“を題材にしていないのです。

だから、印象に残ったのか

と思ったりもしましたが

“あんなにもあんなにも

うれしそうに…“のところに

私は共感してしまいました。

誰も明日どうなるかわからない。

それに完全に備えることも

できない。

ただ、何もできないけれど

勇気を持って

うれしそうに今に向かって

走らなければならない

定めなのだと

知ることになりました。

愛、深き淵より
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