苦しみの中の生きる意味『夜と霧』V・E・フランクル著

夜と霧夜と霧
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本書は第二次世界大戦下、ドイツの

強制収容所(アウシュビッツの支所)から

奇跡が重なり生還を果たした

ユダヤ人精神科医が自らの体験を

記録し絶望の中、

何に希望を見出したかを

戦後まもなく書籍にしたものです。

現在では、

このような強制収容や強制労働などは

考えられないですが

生きる目的がわからなくなることは

この恵まれた現代でも

人々の命を脅かします。

“生きがいを見つけられない“

閉塞感は今の私たちにもあります。

本書では絶望を経験した著者が

どのように希望を持って生きてこれたかを

知ることによって

苦しい中でも生き抜くそのヒントが

見つかるかもしれません。

個人を示すものは番号のみ

「別の収容所に移される」と聞けば

「ガス室送りだ」と思い絶望する。

選ばれるのは、

労働に適さない病人や衰弱した者や

リストの載っている者、

はっきり“病人“と診断された者でなくても

“そのように見える“だけでも

火葬場付きの「ガス室」に送られるという

壮絶な環境下で著者は生きていました。

被収容者は番号で個人を識別し

リストで管理される。

それ以上の個人を示すものは

全て、この収容所では必要ないもの

なのです。

生きるため自らの自我を無価値にする

自分を内面の自由や

独自の価値が備えた人間だと言うことを

自覚することをやめ

群衆の中に「消える」ように

「目立たぬように」し

管理者(親衛隊員)の注意をひかない

ように必死に振る舞う。

自分が“番号“で呼ばれる物に徹する

ことのできる者が

身を守れるのです。                   

まさに、“夜の霧“のように…

*「夜と霧」はユダヤ人を密かに誰にも

わからないように跡形もなく消し去ると

いう意味が込められたヒトラーのつけた

作戦名(ウィキペディアより)

不感無感はなくてはならない心の盾

食べるものなどかろうじて

生きられる程度のものしか

与えらない状況で

フランクル(著者)は医師として

自分が学んだ人間が生きるには

“〇〇が必要“

“〇〇でなけらばならない“の

限界を越えた今に生活の中で

いかに学んだことが無意味で不確かな

ことだったか思い知らされる

ことになる。

このような状態であっても

人は慣れていくことがどこまでも

可能なのだと著者は言っています。

収容所暮らしでは、

一度も歯をみがかず、

そして明らかにビタミンは極度に

不足しているのに

歯茎は以前の栄養状態のよかった

ころより健康的だった。

「夜と霧」 V・E・フランクル

洗濯していないシャツを

何日のきていても傷口は化膿しなかったし

微かな物音でも目を覚ましていた者も

大きなイビキの中でぐっすり眠っている。

そして、殴られることすら

何も感じなくなる心のおかげで

どんな環境に置かれても

人は生きてゆけるのだと

著者は体験から痛感するのです。

自由な精神活動

過酷な収容所の暮らしの中でも

自暴自棄にならず、

生き延びようとすることに

精神を集中させることのできる

人たちがいた。

それは内面的に

深まることのできる感受性を

持ち合わせている人たちで

精神にそれほどダメージを受けなった。

内面への逃避

環境が過酷なほど内面の感受性は

感度を上げていき

些細なことに感動を覚えます。

それは収容される前には

感じられないほどの鮮明さなのです。

「世界はどうしてこんなに美しいんだ!」

「夜と霧」V・E・フランクル

愛する妻との語らい

著者は辛い収容所の生活の中で

妻や故郷を思い悲哀で心を満たしていた。

移送中、故郷のそばを通っているのが

わかると一目この目で見たいと

窓を覗かせてほしいと

希望するがかなわわない。

しかも、そのことを懇願する著者を

邪険に嘲笑い却下し

「(住んでいたんなら)

 さんざん見たからもういいだろう」と

言い片付けられる。

この著者の願いがどれほどせつな願い

だったか理解されなかった。

この時、

別に収容されていた

妻の音信が途絶えている。

著者は妻をことあるごとに

思いだす。

そしてわたしは知り学んだのだ。

愛は生身の人間の存在とは

ほとんど関係なく、

愛する妻の精神的存在、

つまり「本質」に深くかかわっている

ということを。

「夜と霧」V・E・フランクル

妻が実際、肉体が存在することや

生きていることは知る術はなくても

それらはどうでもよかった。

心の中に思う妻と

会話することができた著者は

会っていた時の

ように満たされていく。

もう会うことは叶わないかもしれない

妻の存在は著者が生きている間

どのような過酷な生活の中であっても

彼の心を満たし続けるのです。

生きるということ

行動的に生きることや

安逸に生きることだけに

意味があるのではない。

そうではない。

およそ生きてることそのものに

意味があるとすれば

苦しむことにも

意味があるはずだ。

苦しむこともまた生きることの

一部なら、運命も死ぬとも

生きることの一部なのだろう。

苦悩と、そして死があってこそ

人間という存在ははじめて完全な

ものになるのだ。

「夜と霧」V・E・フランクル

苦しみを経験することは

それ自体が“生きている“こと。

それが克服できなくても

その苦しみを持ち続けることこそ

何かを成し遂げたことになると

著者は言っています。

最期の瞬間まで誰も奪うことの

できない人間の精神的自由は

彼が最期息をひきとるまで

その生を意味深いものにした。

「夜と霧」V・E・フランクル

“苦しみ“が精神的自由を際立たせる

ことになり

“生“を意味深いものにしていくのでしょう。

まとめます

人は肉体的にも精神的にも

極限に達する苦痛を味わうと

本来の生きている意味を

感じることができる。

存在していない人を感じたり

些細な風景が美しく感じたり

できる内面的な感受性が豊になる

ことを感じられる。

この閉塞した現代であっても

生きている意味は探せるのでしょう。

夜と霧
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