【認識と行為】③私の本心を見抜いて下さい『金閣寺』三島由紀夫

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1956年に書かれた本書は

戦争末期から敗戦以降の

国宝の金閣寺を舞台に

戦時中も焼けることなかった

文化的な貴重な建物を

寺で修行中の学生が放火してしまう

実際あった事件を題材に

書かれた小説です。

美意識が高く現実との違いに

悩む青年は金閣寺を燃やして

しまいますが

本書では青年は自害せず

「生きよう」と思ったと締めています。

老師との対峙

金閣寺の見習い僧侶として

修行中の主人公溝口は

金閣寺の威厳の満ちた美しさを

愛しながらその内面の闇に

辟易していた。

それは、老師が芸妓を連れ立って

街を歩いている姿を目撃した

ことで鮮明になります。

そして、後をつけた自分に対して

「馬鹿者!わしをつける気か」と

徒弟の自分に対して俗悪な叱咤を

浴びせた老師失望します。

芸妓の写真を新聞に挟んでおいておく

溝口は老師に毎朝新聞を運んでいるので

この時ある考えが浮かびました。

この新聞に老師が会っていた

芸妓の写真を挟んで出したら

激怒して自分を咎めるだろうと

そして、お互いに腹を割って

話をし理解し合えるのではないかと

期待します。

しかし、老師はスルーして

その写真を紙に包んで置いている

だけで

溝口には通常通りな振る舞いを

していました。

溝口はその態度にさらに絶望を

感じます。

それからは、

学業をサボり成績も下がり

そのことでは叱られることに

なりますが

それにも自分は住職でありながら

女遊びをしていることを

徒弟には弁解も謝罪もせず

何もなかったかのように

自分の素行の悪さを咎めるのに

納得がいかず友達に借金して

家出(寺出?)、出奔します。

寺を焼かなければならぬ

この時に宿泊した宿で

なぜ、老師を殺さないで

金閣寺を焼こうと考えたのでしょう?

ここに溝口なりの

考えがあったのです。

おしなべて生あるものは

金閣寺のように

厳密な一回性を持っていなかった。

人間は自然のもろもろの

属性の一部を受け持ち

かけがいのきく方法でそれを伝播し

繁殖するにすぎなかった。

殺人が対象の一回性を滅ぼすため

ならば、

殺人とは永遠の誤算である。

金閣寺 三島由紀夫

老師を殺しても又その体質は伝播され

別の同じものに置き代わるが

金閣寺は一度消滅してしまうと

その不壊の美しさは

もう再現できないと溝口は定義している。

そのようにして金閣と人間存在とは

ますます明確な対比を示し

一方では人間の滅びやすい姿から

却って永生の幻がうかび

金閣の不壊の美しさから

却って滅びの可能性が漂ってきた。

人間のようなモータルなものは

根絶することができないのだ。

そして、金閣のように不滅なものは

消滅できるのだ。

金閣寺 三島由紀夫

老師に対してもはや軽蔑と嫌悪感しか

ない溝口にとって

『金閣寺』こそが 

完全なる諸悪の根源なのです。

しかし、老師は

連れ戻された溝口に対して叱ったが

寺を追い出すこともせず

大学にも成績不良の状態でも

通わせ

家出のために借りたお金も

払ってやります。

溝口はそんな老師のことも

嫌悪に感じ

授業料で遊郭に出入りし

思い残すことがなくし

金閣寺の放火を決意します。

母親の不治の希望

息子が金閣寺で住職になることを

夢見る母親のこの“希望”を

不治の病のように言っています。

親の期待が重荷になるとは

よく言いますが

溝口は病弱な父と幼い息子の前で

男と不貞をはたらいていた

光景を見た時から母親への

信頼を失っています。

家出の連絡を受けて寺に駆けつけ

泣きながら叱りつける母親に対して

もうこの母に脅かされることは

ないと思っています。

そもそも

この人から生まれたことへの

もどかしい嫌悪、

その深い汚辱の思い、

…それが却って私を母から

絶縁させて、

復讐をたくらむ余地も与えなかった

金閣寺 三島由紀夫

生に耐えるための方法は認識か行為か

生きていくためには“認識“を変える

しかないと主張する柏木に対して

生きることを耐えるためには

“行為“が必要だと言う溝口に

「何かやらかしそう感」を感じた

柏木はその行為が何かわからない

状態ではあるがそれを

止めようようとします。

「美…美的なものはもう僕にとっては

 怨敵なのだ。」

金閣寺 三島由紀夫

感性のするどい柏木に対して

このようなことを言ってしまったのは

自分が今からやろうとしていることを

肯定してほしいとどこかで

思っているからではないでしょうか。

しかし、柏木はそのことを

暗に否定しています。

しかし、

金閣寺をはじめ、すべてのものに

正当性や美を求めることに

ひどい倦怠感を覚えている溝口には

柏木の思いは届きませんでした。

どうか私を見抜いて下さい

決行のその日、

老師を訪ねて溝口の父親にも

縁のある禅海和尚が金閣寺に

やってきます。

溝口はこの高僧に偉大さを

感じ、ここでも自分の“行為“を

肯定してほしいと願ったのでは

ないでしょうか。

今から大それたことをしようと

している溝口に対して

「真面目な良い学生に見える」

「平凡に見える」というと和尚。

溝口は

「私は和尚の思っているような

 人間ではない。」

「見抜いて下さい」と言ってみる。

すると、

雨に濡れた

鹿苑寺の大きな黒い瓦屋根のような

沈黙の重みが私の上に在った。

私は戦慄した。

急に和尚が、

世にも晴朗な笑い声を立てたのである。

「見抜く必要はない。

 みんなお前の面上にあらわれておる。」

和尚はそう言った。

金閣寺 三島由紀夫

この言葉を聞いて“決行“の勇気が

湧き立つのです。

このことで今からこの学生がすることを

肯定したみたいになったと知ったら

ショックじゃないのかなあ😆

まとめます

作品の中に出てくる説話で

『南泉斬猫』でみんなが可愛かっている

猫のために争っているのを見て

南泉和尚が猫を斬り捨てた話を

引き合いに出して、

溝口の今やろうとしていることは

この和尚のやったことはと

同じだと言って説得しようとする。

この柏木は内反足をいう

生まれつきの身体的な不自由があった。

主人公の溝口の吃りと同調させているが

根本的には二人は違う不具合なのです。

柏木の不自由さは不可逆で

もう治ることが望めないもの、

溝口の吃りは

うまくいけば治るものである。

(時には吃らない時もある)

柏木の不具合は“認識“で補えますが

溝口の不具合は既に“認識“が

機能してないところで発生しているので

“行為者“になるしかなかったのかと

思います。

溝口には“金閣寺“を焼く行為でしか

自分の“美意識“を保持することが

できなかったのです。

金閣寺
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