【耽美】②内反足の柏木 吃りの溝口 それぞれの「美意識」『金閣寺』三島由紀夫

金閣寺金閣寺
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1950年に起きた実際に起きた

金閣寺放火事件をもとに

その犯人の若い僧侶をモチーフにして

書かれた小説で

その事件に至った経緯を

著者が独自の発想で物語に

仕上げたているので

リアリティがあり

その想像し難い犯人の青年の

心のうちが露呈されたと

錯覚を起こさせるような

ストーリーになっています。

「内反足」の男、柏木に出会う

主人公の溝口は金閣寺の修行僧として

住み込みで働いていましたが

老師の勧めで寺の次世代を担うために

大谷大学へ進学したのですが

自分の「吃り」を気にするあまり

友達が作れず、一人でいると

同じように

一人でいるどこか“世捨て人“風の男と

親しくなる。

溝口はその“卑屈“を指摘される

「君が俺に何故話しかけてくるか、

 ちゃんとわかっているんだぞ。

 溝口って言ったな、君。

 片輪同士で友達になろうって

 いうのもいいが、

 君は俺に比べて自分の吃りを

 そんな大事だと思っているのか。

 君は自分を大事にしすぎている。

 だから自分と一緒に、

 自分の吃りも大事にしすぎている

 んじゃないか」

金閣寺 三島由紀夫

なんて

卑屈に見積もられた溝口なのでしょう。

この柏木には内反足が溝口には吃りが

あり、そのことで溝口は分かり合えると

ふんで近づきますが

その気持ちに気がつき

同じ不具合があるにしても

俺は君とは違うんだよと言いたげな

柏木は揶揄いながら言います。

「吃れ!吃れ!」と柏木は

二の句を継げずにいる私に向かって

面白そうに言った。

「君は、やっと安心して吃れる相手に

 ぶつかったんだ。

 そうだろう?

 人間はみんなそうやって相棒を

 探すもんさ。

 それはそうと、君はまだ童貞かい?」

金閣寺 三島由紀夫

小さい時から吃ることで

揶揄われたり、

憧れの有為子にバカにされたりで

引っ込み思案になっていた溝口に対して

同じ小さい頃から内反足で

足が不自由なからその足を愛して

やまない柏木とで

対照的に描かれています。

同じ不具合を持っていても

その捉え方が違うだけで

これだけ違うのかということを

著者は男女の関係の中で

表現しています。

女性を愛せない柏木、追従な溝口

柏木は滑稽な外形を持った者が

悲観的に見えたなら

他人は自分に対して

安心して接することができなくなる

ということを

知っていたので

自分の足のことを忘れて

「愛している」と言われ

自分も「愛してる」といえば

滑稽に写ってしまうと考えていた。

自分の不具な足が綺麗に女の足に

重なることと思うと

男女の関係に至らなかったのです。

そして、この不具の足を不憫に思い

足に向かって祈りながら経を読む老婆に

昂奮を覚えた過去も溝口に話ます。

そして、愛のない肉体だけの

一時の交わりを一つの“美“と

捉えています。

そんな、柏木の性癖を聞いたあと

そして、柏木に次から次に

自分と関係があった女性を

溝口に紹介していきます。

(どうも柏木はお顔はよかった?)

いろいろ回りくどく書いていますが

柏木は足のことを

気にするどころか利用しながら

いろんな女性と楽しんでいて

“吃り“を気にして

女性どころか人に交わることすら

できない溝口と対照的に書かれて

いますね。

これも

同じ不具合を身体に備えていても

金閣寺を焼いてしまう者と

それなりに孤独をやり過ごせる者の

違いも浮き彫りになっています。

乳房からお薄(お茶)に乳を注いだ女性登場

一度目はダブルデートで紹介された

下宿屋の娘と関係を持とうとしたが

気持ちの昂りが冷めてうまくいかず

二度目に紹介されたのは

南禅寺で戦地に赴く恋人の士官に

せがまれ、

彼に子供を死産したために出る

母乳をお薄(お抹茶)に注いでいたのを

目撃にした溝口の知っている

見目麗しい初恋の有為子と

重ねた女性のその人だった。

そして、柏木は溝口の前でこっ酷く

彼女をふり、

それを慰めるように促され

言われるがまま、そうしょうとするが

又、そんな関係には成れず

終わってしまう。

あの山門の楼上から

遠い神秘な白い一点に見えたものは

このような一定の質量を持った肉では

なかった。

一個の物質にしかすぎなかった。

しかもそれは何事かを愬えかけ

誘いかける肉ではなかった。

存在の味気のない証拠であり

生の全体から切り離されて

ただそこに露呈されてあるもの

であった。

金閣寺 三島由紀夫

金閣寺に邪魔される

溝口が女性と男女の関係に

なりかけると

何故が金閣寺の美しい姿が

彼女たちに置き換わり

現れる。

建造物と人間が想像で置き換わると

いうのがちょっと解せないのですが

溝口が言うには

金閣寺が邪魔をすると

表現しています。

又、そこに金閣が出現した。

というよりは

乳房が金閣に変貌したのである。

金閣寺 三島由紀夫

この辺りは、柏木の儚いものに

抱く“美意識“と

溝口の“美意識“とは違うものが

あるのでしょう。

たとえ月に照らされていても、

夜の金閣の内部には

あの蔀の内側、

板唐戸の内側、剥げた金箔押しの

天井の上には、

重い豪奢な闇が澱んでいた。

それは当然だった。

何故なら金閣そのものが、

丹念に構築され同型された

虚無に他ならなかったから。

そのように、目前の乳房も

おもては明るく肉の輝きを

放ってこらおれ、

内部はおなじ闇でつまっていた。

その実質は、おなじ重い

豪奢な闇なのであった。

金閣寺 三島由紀夫

あんなに日頃、その美しさを褒め

称えている溝口も

内面には金閣を美しく照らす

光は届かず

剥がれた古い内面、私利私欲が蠢く

闇のような醜さを孕んでいると

感じていることが

女性と関わるたびに表出してしまう

のでしょう。

憎しみが湧いても

おかしくないのかも知れません。

まとめます

このことからも溝口は

建造物の『金閣寺』をあたかも

人間のように表現しているように

思えます。

それがどのような感情なのかを

これから読み進めていきます。

金閣寺
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