【感想】②良心の喪失と医学の進歩『海と毒薬』遠藤周作著

海と毒薬海と毒薬
スポンサーリンク

この作品は戦争末期の

九州大学帝国大学医学部

(今の九大附属病院)で実際行われた

米軍捕虜に対する

生体解剖という残虐な行為を

ベースに書かれたものです。

第一章では研究生の勝呂医師を

中心に大学病院での派閥や

教授の地位をめぐり駆け引きなど

の様子や生体解剖に至る経緯の

説明のような章でしたが

それ以降は

この生体解剖に参加した医師や

看護婦などの生い立ちや経歴を

解きながらそれぞれの心情に

迫って書かれてあります。

登場人物が

醜いこと(生体解剖)だと

わかっていても

それをしたからと言って

自責の念を持っていないのは

どうしてなのか?

これから医療の問題でもあるのでは

ないでしょうか?

道徳的な善悪がわからない人たち

看護婦ノブの場合

この場に介助として入っていた

看護婦として描かれている。

ノブは子供を死産したときに

子供が産めない体となってしまいます。

子供との楽しい生涯を夢見てたノブに

とってこのことは

絶望でしかありませんでした。

離婚し、この舞台となる病院に勤めること

となる。

そして、この生体解剖に参加する

浅井医師と関係を持ち、自身も

それに参加することになる。

ノブは“生体解剖“に対しては

全く良心が痛むことはなく

それに参加している者たちの

滑稽さや醜さを客観的に皮肉っている。

特に、

執刀教授の妻のドイツ人のヒルダに

対しては同じ女として看護婦として

敵意を抱いている。

苦しかったお産の日、

私は生理をえぐりとられた思い出が

心をかすめました。

子を産む能力を失い、

男に捨てられた女が

幸福な妻、倖せな母親にもつ

口惜しさをわたしはヒルダさんに

感じたのです。

海と毒薬 遠藤周作

彼女が母親であり聖母ならば、

女の生理を根こそぎえぐりとられた

わたしは浅井さんと寝る淫売に

なってもかまわないと思いました。

海と毒薬 遠藤周作

ノブとは正反対の倫理観をもつ彼女の

夫である教授が

こともあろうか生体解剖という

医療従事者にとってあってはならない

殺人を犯していることに

気が付いていないことを滑稽に

思い微笑し快感を覚えるのです。

ノブはこんな食べ物もろくにない

時代なのに

寂しさを紛らすために飼っていた

子犬に生理が来たことがわかると

これでもかと殴りつけます。

そして、解剖が終わった日は

一人で生まれてくるはずだった

満州夫のために作った産着を

取り出して、

それを膝においたまま

ノブはぼんやりと坐っていました。

“良心“の一滴すら感じられない

ノブですが

著者はこの人物に慈悲を与えています。

「事情があったのだ」

「可哀想な身の上なのだ」

と言いたいようです。

研究生戸田の場合

この場では第二助手として入る。

戸田は、小さい頃から聡く

周りからどのようにみられているか

どのようにしたらよくみられるかを

ちゃんとわかって行動できる子供で

作文では、

良いことばかり書くのではなく

自分の悪いところ弱いところも

混ぜて描きながら

読み手の教師の好みに合わせて

嘘はない程度にアレンジして

書いたり、

本当は自分が盗んにもかかわらず

他人が犯人にされていても

名乗り出ることはせず

反対にバカにしていた。

それでも、子供特有の“良心“のような

ものがあって

少しアレンジした作文に出てくる

友達に万年筆をあげたり

犯人にでっち挙げられたクラスメイトを

不憫に思い

せっかく欲しくてたまらなかった

蝶の標本を燃やしたりしている。

でも、結局

万年筆をあげた子供にはその意味が

わかってもらえなかったり

濡れ衣をきせられた生徒は

クラスでちょっとした英雄になっていた。

このようなことから

ちょっとした“良心“など無用と

思いながら成長してしまったのかも

しれません。

しかし、戸田はどこかで呵責や自責と

いう気持ちを感じたいと思っている

ところがあります。

殺すという戦慄は戸田の心に

すこしも湧いてこなかった。

全てが事務的に機械的に

終わってしまうような気がして

ならなかった。

海と毒薬 遠藤周作

言いようのない幻滅とけだるさを

戸田は感じた。

昨日まで彼がこの瞬間に

期待していたものは

もっと生々しい恐怖、心の痛み

烈しい自責だった。

海と毒薬 遠藤周作

当然起こるだろうと予測していた

心の葛藤がないことを実感していた。

あの作文の時間も

蝶を盗んだことも

その罰を山口になすりつけたことも

従姉と姦通したことも

そして、ミツとの出来ごと

(ミツにできた自分の子供を不慣れで

不衛生な手技と環境で掻爬したこと)も

醜悪だとは思っている。

だが醜悪だと思うのと苦しむこととは

別の問題だ。

海と毒薬 遠藤周作

“良心“がないので

やったことの醜悪と自責は

分けることができるのでしょう。

これはある意味才能なのかもと

不謹慎にも思ってしまう。

似たような表現で

看護婦ノブについても書かれています。

ノブはその会話を思いだして

嫌悪感を感じた。

しかし、嫌悪感をのぞくと彼女は

軍人たちが(捕虜の)肝臓を食べようが

食べまいがどうでもいいことだった。

海と毒薬 遠藤周作

二人の場合、

正義も使命感もその場その場で

自分が信じたいように変わるのです。

彼らには罪も罰も恐れない

絶望があったのでしょう。

良心は考えようで変わる

勝呂は今自分がやったことは

罪に問われることだと苦しんでいた。

そこで戸田は言いました。

あの捕虜を殺したことか。

だが、あの捕虜のおかげで何千人の

結核患者の治療法が

わかるとすれば、

あれは殺したんやないぜ。

生かしたんや。

人間の良心なんて考えよう一つで

どうにも変わるもんやわ。

海と毒薬 遠藤周作

勝呂は解剖に入ったものの

慄き何もできなかっただけでなく

その場から出して欲しいと

懇願している。

参加を拒否しようと思えばできたのに

空虚のまま承諾し

その場で初めてことの凄惨さに

気づいたのでしょう。

戸田やノブのように

人間の醜さを当たり前のように

考えているものからすれば

勝呂の気持ちが理解できないし

勝呂はどうやっても

救われないでしょう。

「罰って世間の罰か。

 世間の罰だけじゃ、

 何も変わんぜ。」

戸田はまた大きな欠伸を見せながら

「俺もお前もこんな時代の

 こんな医学部にいたから

 捕虜を解剖しただけや。

 俺たちを罰する連中かて同じ立場に

 おかれたら、

 どうなっていたかわからんぜ。

 世間の罰など。

 まずまず、そんなもんや。」

海と毒薬 遠藤周作

勝呂は戸田の言っていることは

生涯わからないでしょう。

勝呂は世間の罰を受けた後も

“良心”の呵責にさえなまれながら

生きていくこととなるのです。

まとめます

著者はカトリック信者なので

ここで言いたいのは

神を持たない国民性を言いたいのです。

医療の進歩という名分で

野蛮とも言える“生体解剖“が

行われたのは、倫理観に薄い民族の

所業と言いたいのかもしれません。

戸田やノブは倫理観や道徳を

「疲労感」表現しています。

それに対して

勝呂のような曖昧な道徳感は

癒えることない

罰を受け続けるのです。

海と毒薬
スポンサーリンク
スポンサーリンク
inuimieをフォローする
スポンサーリンク
ぽつのブログ

コメント