人はそう簡単に謝れない『人生の持ち時間』曽野綾子著

人生の持ち時間人生の持ち時間
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人はなかなか謝れないものです。

特になんで謝らなければならないのが

納得がいかない場合などでしょうか。

私が先日「謝れないなあ〜」と思ったことは

近所のゴミ問題で

自分の自治区の一人が

その出し方に意見し他の自治区の管理者と

揉めたからといって

連帯責任として意見した人と共に

自治区全員で謝ることになった。

この場合、

「なんで私が?」という気持ちも

あったし、

意見を言った人もマナーの悪さを

指摘しただけ悪くないのでは?と

思ったりすると

これからもゴミを捨てさせて欲しいのは

やまやまだけど

うまく表面だけでも謝れるか

心配でした。

まあしょうもないことですが😆

こんな「謝れば済む」のに

謝れない気持ちになったことは

ないでしょうか?

本書でこのことに触れた箇所が

あったので

紹介したいと思います。

相手に対する悔蔑と憎しみが増幅する

例えば、世間では

「社会的に抹殺ことを望んでいるのでは?」

と言わんばかりに

公務員の金銭の私的流用や不倫問題

反日・反韓の問題なども含めて

まず「謝れ!」ばかりです。

著者は総じて「謝れ」という人は

嫌いだと言っています。

他人に謝れと言われて謝る人は

何も謝っていないのだ、

ということさえわかっていない。

強制されて謝った人の胸には

前にも増して、

謝れと言った相手に対する

悔蔑と、時に憎しみが増幅している。

「人生の持ち時間」曽野綾子著

憎しみもなければ気にも留めてない

相手にでも「謝れ!」と言われたら

その途端、自分が例え悪いことを

していたとしても

その相手に対して憎しみを抱いて

しまうのは何故なのでしょうか?

人間は自分のしたことでないと謝れない

著者は怒りをぶつけ合うのは

民主主義的表現の自由である程度は

許されると言っていますが

例えば、反日・反韓デモなども

ある程度は仕方がないという

ことなのです。

しかし、ここで私が注視したのは

「謝る」というキーワードです。

しかし、戦争中に日本人がしたことを

今謝るということはできない、

と私は思う。

理由ははっきりしている。

本質的に人間は、自分がしたことでは

ないことを謝ることは

できないからです。

それが可能だというなら、

人は、常に自分の犯した悪事を

他者に謝られることができる

ことになる。

「人生の持ち時間」曽野綾子著

よく、国家間で「謝る」「謝らない」で

揉めているのは

著者の考え方からすれば

当事者はいないのだから

あまり意味がないことなのかなあと

思います。

著者ははっきり組織や国家の

「謝る」は金銭賠償のことだと

言っています。

「謝罪」は過去に向けた行為

著者は私たちが死ぬまでに持ち合わせた

時間は限られていてそんなに長くない。

「謝罪」など求めたり受けようと

していると

なんの生産的な仕事を果たせず

死んでしまうことになると本書には

記しています。

確かに強制的に求めた謝罪は

なんの反省も自責の念もなく

行われる行為でそのことで

さらに相手に憎しみを抱かせてしまう

行為なのだと思うと

「謝罪」すれば納得するような

相手とは深く関わらな方が

良いのでしょう。

そして、私たちはゴミ捨て場を

別の場所に変えることになったのです。

人生の持ち時間
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