【考察】平等に教育が受けられることは本当に幸せなのか? 塾歴社会 おおたとしまさ著

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明治維新から念願であった

“教育の平等“が

全国津々浦々まで行き渡った

昨今、その平等のために

新たな“競争社会“が生まれた。

限られた者だけが教育を受ける

ことができていた時には

起こらなかった

競争や学生の質の低下が怒って

しまっている

それがなぜか考えたいと

思います。

それにあたって

本書を参考にしました。

全員が東大へ行けない

小学校や中学校は義務教育なので

転校してもどこに行っても

同じ教育を受けられる。

学習指導要項が

国で定められているからだ。

教師たちはそれに従ってみんなに

同じ内容を教えていく。

とてもありがたいことだ。

そのことから

高校、大学受験もその“範囲から

はみ出すことがない。

目指せばみんなが東大に行けるのだ。

のはずが東大なんて行けるのは

一握りの数%の人だけ。

おかしい、

機会は与えら得ているのに

その範囲からはみ出てないのに…

東大受験者は中学入試をクリアしている

中学は義務教育だから

基本は試験で振り落とされる

ことはないのだが

そこに“受験“して入るのだ。

いわゆる、“進学校“と呼ばれる

中学校です。

東大を受験する人の大半が

もう1回目の入試をクリアしているのです。

その“入試“も

学習要項からはみ出したものは

アウトなので

仮に方程式や関数などを知っていても

公式を使って解いてはダメなのです。

答えだけ書くことも多いので

方程式や関数を使ってもバレはしませんが

中学入試の問題は

かえって解答が遅くなってしまうので

公式などは使いません。

そんな小学校に行っているだけでは

決してできない問題が出ますが

それでも

“小学生“の範囲を逸脱はしていません。

そうゆう「特殊」な学習が必要であれば

やはり、受験用の塾に通わなければ

ならないでしょう。

日本で「学歴社会」が成立したわけ

東大へは機会が与えられたからといって

合格するのは難しそうです。

著者はこの行き渡った平等の教育が

逆に格差を生むきっかけとなったと

言っています。

同世代のほぼ全員が基本的に

1本のレールの上を行くバイパスの無い道。

しかし、テストをすれば

当然点数に差がつく。

順位が生まれる。

平等な環境が与えられている

はずなのに

隣の生徒より得点が低いものは

努力不足ということになる。

逆を言えば

テストで人より良い点をとった者は

それだけ努力したのだから

報われて当然という理屈になる。

(中略)

そして「学歴社会」が確立した。

塾歴社会 おおたとしまさ著

戦前のごく一部しか

中学校に進学しなかった頃のような

「エリート志向的学歴社会」な

適材適所の中での格差ではなく

全国民の価値観を一つした

「大衆型学歴社会」に

なったのです。

「学歴」が出目を隠す「通行手形」となった

なぜ、そのようなことになったのか?

誰もが平等に機会が与えれれる

学問で優劣をつけることで

どんな出目であってもどんな社会階級

にでもあがっていけることを

保障する「通行手形」の役割を

「学歴」が担う装置になってしまった。

皮肉にも

平等な教育を行き渡らせることを

実現した結果、

国民的教育競争が始まってしまった。

そこで、その“平等“から

少しでも優位に立つために

学校とは別の教育機関の

“塾“の存在が1970年あたりから

爆発的に増え

現在も学校と塾の二本立て

「塾歴時代」が到来しています。

素晴らしい教育平等至上主義の弊害

明治維新によって上流階級しか

受けられなかった

学問が全国民に機会が与えれれるように

なったのに

そのことで、その学問の優劣に価値が

縛られるようになり

自由になるために人より

一点でも多くとらなければならない

新しい階級にも似た「格差」。

武士は武士、百姓は百姓と

本人にはどうしょうもないことで

「格差」が決められていた時代の方が

大勢の人にとっては幸せだったかも

しれない側面もあるということがわかる。

その方が、適材適所で活躍できる

機会が多くなると思うからだ。

「塾歴社会」は経済格差と連動している。

これでは本当の機会平等とは言えない

ということである。

塾歴社会
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