【考察】人材余りの原因となった現代教育 論語と算盤 渋沢栄一

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来年のNHK大河ドラマの主人公となるのは

「渋沢栄一」です。

今回は知らない人だと思ったのは

私だけでしょうか?w

本書『論語と算盤』は

「日本資本主義の父」と称される

渋沢栄一の講演会口述をまとめたものを

守屋 淳氏によって現代語訳されたもの。

この明治初期の頃は

漢文調の文章が多く

やはりそうなると、現在の私たちには

ちょっと敷居の高いものとなり

「渋沢栄一」について

知ることが少し困難でもあったのでは

ないかと守屋氏は思い

「超訳」「中学生でもわかりやすい」を

基準として本書を書いています。

なのでとても読みやすく

渋沢栄一という人物の人となりを

垣間見ることができました。

そこで「教育と情誼(真心を尽くす)」の

章で現在にも通ずる「雇用」の考え方が

述べられていたので

考えてみます。

現代教育で得たもの、失ったもの

得たものは、平等な教育

明治維新前は「士農工商」の階級が

はっきりしていて

例えば、

武士の中でも「上士」「下士」があり

百姓や町人でも村のまとめ役の家柄や

そうでない家の者がいて

自然に教育の異なる点があった。

武士はレベルの高い中国古典などを

勉強し理想も高く

百姓や町人はもっと身近な

お稽古ごとを身に付けるのが

常であった。

ところが階級がなくなった現代では

皆が同じ教育を受けることが

できるようになった。

みんなに教育の機会が与えられることは

素晴らしいことです。

失ったものは、教育の目的

階級によって学習することが

初めから決まっていれば

その目的も決まっていた。

武士なら家族をまとめ、国をまとめ

天下を安定させる役割を果たすため、

百姓や町人なら商売がうまくいく

ようなセンスを磨くなど

それぞれがその境遇や生活で身の丈に

あった学問をしていた。

しかし、誰もが同じように

教育を受けることができると

その目的が変わってきてしまった。

「昔の人間は、自分を向上させる

ために学問をした。

今の人間は、名を売るために

学問をする。」

論語と算盤 渋沢栄一

心を磨く学問から知識を詰め込む学問へ

武士階級が行なっていた

上に立つものとしての

「心を磨く」学問の道徳(論語など)

などは知識の学問としての科目も増え、

大勢が学ぶ対象となったため

正義や信用を重んじるような

人格形成に役に立つ

道徳的な学問はなおざりに

されてしまった。

現在の学生は言わば

だだ、“学問のために学問をする“

ようになってしまった。

昔のような“学問の目的“はなく

なんとなく学問をした結果、

実際、社会に出てから

「自分はなんのために

学問をしてきたのだろう」

というような疑問に襲われる青年が

少なくない。

「学問をすれば誰でもみな偉い人になれる」

という一種の迷信のために

自分の境遇や生活を顧みず

分不相応の学問をしてしまう。

その結果、後悔することになるのだ。

論語と算盤 渋沢栄一

誰も彼もが同じ学問をするのではなく

自分の境遇や経済力に合わせた

実際に役に立つ専門教育を受ける

べきだと渋沢栄一は言っています。

人材余りの原因

このような現代の教育の中

経済の世界の人材の「需要」と「供給」の

バランスが崩れてきている。

「使われる側」の需要は多いのに

「使う側」に人材が集まるように

なり「使う側」の人材が余るように

なったのです。

今日の時代は高度な教育を受けた

人物の供給が多すぎる傾向が

みられるようになりました。

一般に高度な教育を受けたものは

立派な事業に従事したいと

希望する。

ゆえにそこに人が集まり

供給過剰になってしまった。

“立身出世“を夢見るのは良いことと

渋沢栄一も行っているが

社会全体や国家を考えれば

さまざまなタイプの人材が必要で

あるため、そのことは

弊害となる。

高い地位の社長ばかりでは

社会は回らないのです。

ところがほとんどがその少数しか

必要のない「人を使う側」を志す。

しかし、昔のような限られた中で

質の良い学習を積んできた者たちでは

ないのでみんな似たりよったりで

上に立つ精神を磨くことのなかった

知識や理屈ばかりが高度の

気位ばかり高い人材が余ってしまう

世の中になった。

ある意味、不完全ながらも

限られた者で少ない科目の

質の良い教育(道徳もしっかり学ぶ)

を受けたものから「これだ」という

逸材を採用していけていた

階級別の教育の方が

無駄な「人を使う側」の

人材を減らし

需要と供給のバランスが取れていたと

本書では言っている。

今日の教育の方法は

平等に機会を与える素晴らしいものだが

道徳を学ばず、

自負心だけを持ったために

無駄な学問に終わってしまう

人材を生んでしまった。

昔の教育が百人の中から

一人の秀才を出そうとしたのに

対し

今日では

九十九人の平均的人材をつくる

教育法の、長所と言えなくもない。

しかし、その精神を誤ってしまったので

ついに現在のように

並以上の人材があり余ってしまう

結果をもたらしたのだ。

論語と算盤 渋沢栄一

まとめます

教育の機会が平等に与えらたことは

素晴らしいことだが

その学問は

昔、限られた階級の中で成されていた

学問とは違うものとなった。

その学習とは

三日間、師匠の家の軒先で

門人にしてもらうことを

懇願し、やっとその学問を

習えるような高尚な師から学び

知識などはレベルは高いが科目を絞り

その分、自分自身で学ぶこともし

「論語」など中国古典で道徳も学ぶ

という天才を育成する学問であった。

これらの学問を行うと

おのずと人材は淘汰され

“人材余り“のようなことは

起こらなかったというわけなのです。

高い知識や理論を身につけるなら

必ずセットで道徳を学ばなければ

せっかくの高度な知識も無駄に

なってしまうことを

肝に命じなければならない。

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