私などは利益を得るために
働いているのですが
この仕事をすることによって
“お金“がもらえるという
観点から考えれば
仕事の目的や意義などは
どうでもいいことのようですが
時に、そう思いながらも
怠惰な気持ちになるのは
一体なぜなのでしょう。
本書を読みながら
考えてみました。
徒刑囚たちの労働
彼らの労働は無益である。
罪を償うための労働なので
無益でもなんでもいいのです。
例えば、薪は沢山あり、薪を作っても
タダ同然間のに
薪を作るために古い船を壊したり
したりすることだっていいのです。
このように、彼らはその“労働“に
価値はなくても
“労働“という名のもと動いていれば
いいのです。
彼らはそのことをよく心得ている。
それだから、昼のあいだじゅう
なんの期待もなく労働している
かぎり
かれらは怠惰で、陰鬱で、不器用である。
幸福論 アラン著
その“労働“をすることによって
罪を償うことができるのは
本人にとっては利益なのかも
しれないが
その“労働“自体になんの価値も
見出せないとしたら
その労働時間は怠惰で苦痛を
伴うことになると
本書では言っています。
期限のある仕事
では、1日分として終わる仕事が
与えられたらどうでしょう?
期限があるとそれを如何にして
効率よくうまくこなすかを
計画し、目標を持ってそれを
成功させるために
意欲を持って実行していく。
その労働で得られる賃金などの利益でなく、
その“労働“の価値の方が
労働意欲を掻き立てるのには
必要なことで、それがあれば
困難な仕事であっても
それを器用に巧妙に陽気に
やり遂げる活力となる。
有益な労働はそれ自体楽しみである
ことがわかる。
楽しみであることがわかるのは
労働それ自体によってあって
そこから引き出される
利益によってではない。
幸福論 アラン著
仕事に“期限“があったりするだけでも
目的、目標になり
その仕事自体の価値になり
それらが“労働“を楽しむ要素となる。
そして、
実際に“有益“になることであったり
“協同“で困難に立ち向かったり
“自由“にできることが
「労働」の楽しみをさらに
アップしていくと
本書では書いてあります。
例えば、休憩を取るにしても
熱心に働いたこれらの
生き生きした
“労働“の思い出があるからこそ
良い休息となるのです。
勉強と疲労を切り離す
子供にのべつ幕なしに勉強を強要すると
のろのろと勉強するようになる。
すると疲労が絶えず勉強と混ざり合って
しまうと本書では書かれています。
例えていうなら
ただ空気を吸うだけ
ただ歩くだけの散歩をしている
ようなもの。
散歩から帰っても疲れていない
けれど
散歩中は倦怠を伴った疲労が
あるのです。
このようにダラダラした勉強は
疲労ばかりで成果は得られない。
それよりも
時間を決めて集中し勉強中は
辛くでも夢中になることによって
その時は疲労を感じず
その後の休息は完全なくつろぎとして
楽しみ
ぐっすり眠りを楽しむことができます。
まとめます
「労働」といえば
賃金やお金を得るためと
淡々粛々と働けばいいのでしょうが
時にそれでは償えない“疲労“に
襲われる時がある。
それは、この労働自体の価値に
疑問を抱く時に起こることがある。
「今日中にできなくてもいい」
「できないんだったらいいよ」
って仕事は気楽のようで
こうゆう仕事に限ってかったるい
疲労を感じるものである。
“使命感“や“情熱“が起こるような
仕事をしているときは
どんなに休みがなくても
疲労が感じにくいのは
私だけでしょうか?
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